南町三丁目商店街振興組合・ホームページ(水戸市南町3-4-16)

消えた風物詩・Uページ・新井洋三郎著

14)銭湯(せんとう)
 銭湯は、お金を払って入る大衆浴場のことです。
 ふろは、現在のように各家になかったので、三の丸学区の人々が利用した銭湯は、旧町内名でいうと黒羽町・水門町・大杉山・鉄砲町にあったものです。
 その頃、私の家には、ふろがあつたので、銭湯に行く機会は少なかったのですが、何度か兄たちに連れていってもらった記憶があります。
 私たちは、自分の手拭と石けんを小脇に抱え、着物を着て、下駄履きで出かけて行ったものです。
 銭湯の前に行くと、大きなのれんが下がっており、その右には「女湯」、左には「男湯」と書かれており、男女別の入り口がありました。
 私たちは、番台にいる人に入浴料を払い、脱衣場で裸になって、湯舟につかりました。湯舟は、家庭のものと違って、大変広かったので、他に客がいない時は、泳ぎのまねをしたり、兄が手を引いてくれたりしました。
 正面の壁板には、富士山と松の木の風景や天女の舞っている姿も、ペンキで画かれていたと思います。
 銭湯の客の中には、いろいろな人がいましたが、印象深かったのは、桜の花びらを背の中に入れ墨した若い男の人がいて、どんな人が入れ墨をするかということを後で知りました。また、浪花節(なにはぶし)(浪曲)の好きなおじさんが、手拭を頭にのせ、湯舟につかりながら、顔を真赤にして目をつむり、心地よさそうに語っているのも懐かしい思い出です。
 冬の夜、銭湯帰りに屋台店や食堂に寄って、支那ソバ(今のラーメン)を兄たちにご馳走になることも、銭湯息の楽しみの一つでした。
15)チンドン屋
 子供心のロマンを誘ったチンドン屋は、今はもう見られなくなりました。
 人目につき易い特異な服装を着け、太鼓・三味線・かね・ラッパ・クラリネットなどを鳴らしながら、背中に広告やのぼり旗をもって、商店の開店披露、売出広告、映画、演芸の宣伝をしていました。その際、ビラをまいたり、簡単な景品をくれたりしたものです。
 このチンドン屋は、二人組・三人組・五人組などがあって、男だけの編成もあり、男女混合の編成もありましたが、女だけのものはありませんでした。
 私たちは、遠くから聞こえてるチンドン屋の音色に、胸をときめかせて駆けつけ、チンドン屋の後を追ったものです。
 戦後、私の家は旧柵町四丁目に移り、銭湯屋を経営していましたが、チンドン屋さんたちは、仕事が終わると、ふろに入りに来ました。顔から胸元まで、べったり練り白粉をつけていましたから、ふろから出てきた人たちが別人のように見えました。
 今、考えてみると、チンドン屋が使用する楽器も和洋折衷だし、服装も鳥追姿の女や股旅姿の男がいると、ピエロの姿や山高帽に燕尾服を着た者がいて、やはり和洋折衷であったのも面白かったように思います。
 現在では、全国の数少ないチンドン屋を、年一回、富山市に集めてチンドン屋大会を開いているそうですが、機会があれば、ぜひ一度見たいと思ってます。
 関西方面では、このチンドン屋のことを「東西屋」とか「ひろめや」とか言っているそうですが、いつの時代から出始めたのか分かりません。
16)内職
 内職というのは、家計の補助のために、自分の家でする仕事で、主に主婦がやりました。
 現在では、パートで働く主婦が多くなりましたが、その頃は、女の人の職場が少なかったので、内職が盛んだったのでしょう。

 内職する場合は、問屋が内職をする人に道具や材料を貸して、賃仕事をさせます。作られたものは、問屋が集めにきて、また材料を置いていく仕組みになっていました。
 その一つに、ちょうちん張りがありました。台の上に木わくを組み立て、竹ひごで形どりし、紙をのり付けしながら、お盆を迎えるちょうちんやお祭りの高張りちょうちんなどを作っていました。
 ちょうちん問屋は、下市の蔭山さん・袴塚の鈴木さん・新荘の青野さんでした。しかし、精巧に作られているお盆に使う岐阜ちょうちんのようなものは、地元の内職ではできなかったようです。
 その二つは、着物の仕立ての内職が割合多かったようです。これは、道具が裁縫用具だけですから、近所の人から頼まれたものや呉服屋さんから頼まれたものなどを内職したものです。
 そのほか、だるま作り、うちわ作り、などの内職をして、自分の庭で出来上がったものを乾かしているのを見たことがあります。
17)有賀さん
 東茨城郡中妻村(現在は内原町)大字有賀にある有賀神社の御神体が、牛車に引かれ、法螺貝(ほらがい)を吹きながら、有賀ー水戸ー大洗へち浜降りするのは、11月11日(旧暦の9月25日)です。
 その頃、小さい子供をねんねこばんてんに背負った母親などが、その神幸(みゆき)の通過する所で待っていて、子供の虫切を祈り、さい銭を上げました。
 私の家などでは、父の実家が那珂町にあり、親類も多かったので、この有賀さんの通過する前日には、泊り客が多く、赤ん坊が泣いて、とてもうるさかったものです。 
 それでも、私の母などは、「寒いところ、大変だったね。子供が元気そうで何りよりだね。」などと、親類の若い母親を心温かく迎えたものです。
 とにかく、市内在住の者ばかりでなく、近郷近在から有賀さんをおがみに来る人が多く、農家の嫁さんにとって、この日は休日であり、帰りには、それぞれ「有賀あめ」の袋などをみやげにしたものです。
 有賀神社は、もと鹿嶋大神宮といって、天正19年(1591)頃の創建で、祭神は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津(ふつぬし)主命の二柱で、明治12年に有賀神社と改称いたことが文献などに記されています。
 水戸藩は、敬神の念が厚いところから、この有賀さん渡御に際して、江戸時代も昼夜を問わず、城の柵門を開き、吹螺貝を吹くことも、乗馬することも許可し水戸の町を通過させたそうです。
 現在では、小型トラックに御神体をのせて、有賀さんが水戸を通過するのですが、お詣りする人も少なくなってしまいました。
18)大杉山水場(みずば)
 その頃、水戸市内では、プールが水戸高等学校(現在の水戸一中・国立病院内)にあっただけで、一般の人が泳ぐ場所は、水場で泳ぐことになっていました。
 三の丸学区では、水府橋のたもとのところに、大杉山水場があって、多くの子供が通いました。最初は、赤帽といって泳げない者、次は、ノシ(横泳ぎ)で、10メートルぐらい泳げると、四級の白帽子になり、更に、三級は、白帽子に赤線1本が付けられています。そして、二級・一級・独泳・舟番・師範となり、川舟に乗れるのは、独泳あたりからでした。
 大杉山水場以外に、下市水場(城東小の近く)や上市水場(万世橋近く)があって、そえぞれの水場での伝統や格式をもっていたようです。しかし、そのいずれもが水府流の流れを汲んだもので、現在学校やスイミングクラブで教えている泳ぎ方とは違っていました。
 私たちは、近所の人たちと誘い合って、にぎりめしやおやつのときのとうみぎ(とうもろこしのこと)などをもって出掛けます。赤帽や四級は、泳ぐところがきまっていて、旗が立っている範囲内だけしか泳げません。危険防止のためで、その範囲を縄張りと呼んでいました。 
 一定の時間を泳ぐと、振鈴が鳴り、休憩しながら自由に持ってきたものを食べました。
 雨の降った後などは、川が濁っておりますから休みになり、進級試験は一夏に何回かありましたが、一夏一ランク上がればよい方だったように思います。
 水場以外のところで泳ぐことをノッポといい、那珂川以外では桜川も、その場所でした。
19)救世軍(きゅうせいぐん)
先日、東京都に所用があって行った際、池袋のところで救世軍の人たちが活躍していました。
 この救世軍は、イギリスのウイリアム・ブースが、1878年に創設し、日本では明治28年(1895)に東京でだい1回の集会が開かれ、世界的に有名な山室軍平が初代救世軍の司令官でした。
 私が子供の頃は、水戸駅前などで、この救世軍が歳末になると、4・5人で1かたまりとなり、「救世軍、社会鍋」ののぼり旗を立て、3本の棒を組み合わせた上から鍋をつるし、ラッパを伴奏にして、「ただ信ぜよ」(リバイバル聖歌191番)を歌っていました。
   “十字架にかかりたる  すくい主を見よや  こは  なが  おかしたる  罪のため  ただ信ぜよ  ただ信ぜよ  信ずる者は  たれも  みな救われん” 
 昔は、一般社会の人々の社会救済事業が救世軍中心だったように思います。それで、年末になって救世軍が来ると、私などは、兄たちに連れられて、寒い夜、衿巻きで頬冠りしながら見に行ったものです。
「貧しい人の為に、社会鍋をおねがいします!」と、メガホンで呼びかけ、社会鍋に寄付金を入れるのを見たりして、異国的な雰囲気の情景に魅せられてものです。
 現在では、赤い羽根の共同募金などといって、水戸駅・南町などで盛んに行なわれていますが、この救世軍の姿は、全く見られなくなってしまいました。
20)チンチン電車
 水戸市内の目抜き通りの路面を、水浜(すいひん)電車が走っていたのは、大正11年から昭和40年の約半世紀です。
 この電車を、通称「チンチン電車」と言っていたのは、発車するときと停車するときに、「チン、チン」と鐘を鳴らすところからきていたのです。
 水戸と磯浜の間は、明示11年から始まったポンポン船によって、焼玉エンジンの付いた機関船が、何そうかの和船を引いて那珂川を往復していたそうです。
 それと並行して、水戸―大洗―鉾田間には、やはり明治11年頃からトテ馬車もあったといわれます。
 常陸太田の豪商であった竹内権兵衛が、路線を延長しながら上水戸―磯浜間に電車を走らせたということは、県庁所在地の水戸の町にとって、交通の動脈的存在だったと思われます。 
 三の丸学区では、水戸駅前の停留所が、朝夕、大変なにぎわいでした。また上市方面では、郵便局前、下市方向では、柵町(現水戸三高下)に、停留所があり、ここで電車がすれ違い、いずれも単線の一輌電車でした。
 その頃、一夏の海水浴に二・三度しか行けませんでしたが、このチンチン電車にのって、海遊びが出来る幸せをかみしめたものです。
 戦後も、水戸市内の唯一の交通機関だった水浜電車も茨城交通の傘下となって、市内バスのおされ、カーブの際に出す騒音や一般自動車走行の邪魔になるというところから閉鎖せざるを得なくなりました。
 日本では、明治23年に初めて電車が登場したわけですから、約30年後に水戸の町に敷設され、そして、半世紀間走ったことになります。
21)蒸気機関車
 昭和62年4月、長い歴史を誇っていた国鉄が民営化されました。
 水戸の玄関口は、水戸駅であって、明治22年(1889)に、小山ー水戸間に水戸鉄道、明治31年(1898)常磐線が全通することにより、水戸市街地の形態や機能も大きく変わったわけです。
 昭和10年頃は、鉄道は蒸気機関車で、D51型やC57型によって、旅客・貨物列車に使われていました。もくもくと煙を吐き、汽笛を鳴らしながら走る姿は、交通機関の花形として、勇壮なものでした。
 三の丸学区の中に、鉄道官舎があり、その子弟が三の丸小学校に、たくさん通っていました。後で、鉄道管理局や自治会館ができて、これは千波舟付へ移転されました。
 三の丸小学校の学校日誌を見ますと、明治36年頃から東京へ汽車で二拍三日の遠足に行ったという記録があります。当時としては、一般人も汽車に乗るということが少なかった時代に、これは大変特筆すべきことだと思います。私が、小学校時代に汽車に乗って遠足に行ったのは、学年は忘れましたが、友部と袋田だけです。友部は、県の種畜場・友部飛行場の見学で、袋田は四度の滝を見たのを覚えています。
 昭和30年頃から蒸気機関車に代わって、ディーゼル動車や電気機関車となり、あの勇壮な姿は見られなくなりました。公害(煙・音)の問題、スピード・アップ、火災防止などによって、懐かしい蒸気機関車は消えましたが、その頃の多くの子供にとっては、最高の郷愁をそそるものの一つと言えま
22)長岡線
 柵町の大塚屋さんの裏の方に、長岡線の発着所がありました。
 この長岡線は、昭和4年から13年の短い期間、水戸ー長岡線を、ガソリン気動車で走りました。
 常磐線は、もともと陸前浜街道に沿って走る計画で、上野ー石岡間ができたのですが、石岡ー水戸間は、地盤の問題、住民の問題などで、計画が変更され、石岡ー友部ー水戸となってしまいます。
 この陸前浜街道の沿った石岡ー水戸間を、水石電気鉄道として計画したのが長岡線だったのです。資本を出したのは、東京の20人ぐらいで、地元では、石岡の浜平右衛門(鹿島参宮線社長)一人だったと言われています。
 最初に、水戸ー長岡間を走らせ、石岡まで延長を考えていたのですが、柿岡磁気観測所に電気鉄道では影響するということで、許可が取れず、ガソリン気動車で運転せざるをえなかったのです。
 しかし、水戸ー長岡間を走らせたものの途中に大きな集落もなく、水戸の発着所が水戸駅から離れすぎている不便もあって、乗客が少なく中止せざるをえなくなったのです。その二・三年後、この路線近くに水戸吉田飛行学校ができているのです。この長岡線が、あと少しもちこたえてたら・・・、と思ったりもします。
 私の子供の頃は、桜川の鉄橋を1輌編成でこの気動車が渡っていく姿が印象深く思い出されます。その橋げたは、最近までありましたし、軌道後も何か所も残っていました。
 幻の鉄道として、計画の半分も実現できなかった長岡線ではありましたが、1度乗っておけばよかったと思っております。
23)人力車
 昭和十年頃には、もうタクシーやバスもありましたが、今のように大量にあったわけではありません。
 明治・大正時代の花形の乗物であった人力車に、芸者や旦那衆がのって、車夫が軽々と引いているのを見ました。
 その頃、水戸駅の東側には、タクシーが客待ちしておったわけで、現在と大体同じ場所ですが、タクシーが出現する前は、人力車が汽車の着くたびに、その位置で客待ちしたそうです。
 人力車は、文明開花の中で、日本人が発明した唯一のもので、馬車に対して人車と言ったそうです。明治二年(1869)に和泉要助という人が発明し、全国へ広がっていき、水戸へは明治十年に入っていました。この人力車は、日本国内ばかりでなく外国へも輸出されるほど便利な乗物であったのです。
 人力車に乗る人は、赤い毛布を膝の上にかけ、頭の上に幌をおおい、また車夫は、足袋はだしで、ももひきの服装でした。子供心に1度乗ってみたいと思いながら、とうとうその機会を失ってしまい、今、思いかえすと残念です。
 最初の頃の人力車は、車輪が荷車と同様で、自転車と同じようなスポークとタイヤに変わったのは、明治40年(1907)頃です。当時は、今のように道路が舗装されていませんから、長距離を引いたり、乗ったりすることは大変だったと思います。

24)よいとまけ
 現在、家屋の建築、道路工事はど普請には、機械が導入され、地固めなどもランマーというものでおこなっています。
 昔は、人力によって行われたわけで、それを“よいとまけ”でやりました。また“えんやこらや”とも言いました。地固めのことを“どうづき”と言って、やぐらを組み、真中にある綱に重しの柱を、各自の持ち綱で上下させ、下ろした力で地固めしたのです。
 綱を引く人は、10人前後で、男女が混じっており、男だけ、女だけの編成はなく、中心の重石の柱の調子を取る人だけは男に定められていたようです。
 よいとまけが始まると、「えんやこら」と調子を合わせて綱を引き、「ドスーン」と重しの柱が下がり、地固めの場所に合わせて、やぐらを移動していました。
 綱を引いては、綱をゆるめて地固めをする1回ごとの合間に、よいとまけをする人々が、即興の唄をうたうわけで、道行く人も足をとめたり、近所の人も見物に出掛けたりしたものです。
 このよいとまけの女の人たちは、もんぺ姿で、手ぬぐいで姉さんかぶりにし、地下足袋を履き、男の人たちは、ねじり鉢巻きで、はっぴを着、やはり地下足袋を履いていたように記憶しています。
 多分、賃仕事で、仕事があると寄せ集められて、よいとまけをやったのだと思いますが、この地固めの用法は歴史が古いのではないかと思います。
 子供心に、男も女も元気で体格のよい、そして、たくましい労働だという印象を強く受けていました。

 絵・横山洋三先生


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