南町三丁目商店街振興組合・ホームページ(水戸市南町3-4-16)
消えた風物詩・Vページ・新井洋三郎著
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25)いかけ屋 いかけ(鋳掛)屋が、リヤカーなどを引きながら、「いかけ、いかけ・・・」と、町内を一巡し、いつも商売を始める場所の道端に道具を並べて、客待ちをします。 当時は、鍋・釜・金だらいなど、小穴があいたりすると、今では廃棄してしまう品物でも、このいかけ屋に修理してもらって、物を大事にする時代でした。 いかけ屋は、小孔のあいた金物に、しろめ(白臘)はくろう といった“はんだ”を溶かし込んで、孔を塞ぐのです。その後で、塞ぎ具合を太陽の方に向けて確かめ、更に水に浸してでき具合を見たりしました。その頃、このいかけ屋は、人々にとって便利な存在だったと言えます。 江戸時代の文化末年の頃、大阪に夫婦連れで歩きながらの鋳掛屋があったのを、三代目中村歌右衛門が、これをモデルにして芝居をしたことから、夫婦一緒に歩くことを「いかけ」とも言われます。 私などは、母に「これを、いかけ屋さんにもっていきな!」と言われ、頼んでから、順番くるまでの間、修理の様子が面白くて見ていたものです。自分の修理が終わると、母に連絡し、代金を払ったものです。 どちらかというと、いかけ屋さんは、商人の中で、無口で愛想のない人という印象を受けています。 その外、修理のような商売で来たのが、ラオのすげかえ屋、(キセルの修理)、とぎ屋(刃物などをとぐ)、のこぎり屋(のこぎりの目立て)、下駄屋(下駄の歯を入れかえたり、鼻緒のすげかえ)などがありました。 |
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26)櫛屋 最近、櫛を作っている店が見あたりません。 髪をとかすのに、今は、ブラシを使う人が多くなったり、日本髪の人も少なくなったし、櫛を使っても昔の木櫛を使っている人も少なくなったりしたために、櫛屋がなくなってきたのでしょう。その頃は、木櫛を作っている家があって、その行程を眺めたものです。 先日、東京の不忍の池の近くのある櫛屋さんの前を通り、懐かしかったので、しばらく眺めさせてもらいました。店の片隅に積み上げられて、乾燥してある材料は、作る櫛の大よその形に束ねてありました。木櫛の材料は、黄楊(つげ)の木で、かんなで削ったり、鋸で歯を作ったり、鑢で磨いたりしている様子や作られた品物は、全く昔のままでした。 ヨーロッパでは、古くから青銅製の櫛があり、日本は「奇(く)し」の意から「櫛」の言葉が生まれ、神聖なものとして、また魔よけ的なものとして考えられたようで、古墳などから発掘されることもあります。 私の子供の頃は、櫛が割れたり、櫛の歯が欠けたりすると「縁起が悪い。」などと母が言ったもので、大切にしたのも、そのようなことに関係があると思います。 木櫛は、髪をとかすだけでなく、髪飾り用の物もあり、現在も日本髪を結うとき使用されます。木櫛に漆塗りや蒔絵にした美しい意ものもありますが、半円形を基調としています。 女性の装身具は、いつの時代にも流行が激しいわけですが、櫛は、長い歴史をもっていた割に、ここへきて急速に変化した物の一つと言えるでしょう。 |
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27)午報のサイレン その頃、旧市役所(現在の京成ホテル)内にあった鉄塔の火の見やぐらの上に、サイレンが設置されており、正午を報せたものです。 その午報は、「ウーーーー。」と約1分間ぐらい鳴って、当時の水戸市全域に響かせました。 サイレンは、警報・時報・信号などに広く使われる号笛用の音響機器のことで、江戸時代末期にフランスのツールという物理学者が考案し、水戸市では、昭和七年(1932)に採用されたわけです。 ですから、このサイレンは午報だけでなく、市内に火災などがあると、「ウーー。ウーー。ウーー。」「ウーー。ウーー。ウーー。」と、断続的に三回ずつ鳴らして市民に知らせ、消防自動車や、消防団の人が駆けつけたものです。そして、火災を知らせる電話番号も「1370」即ち「イザナレ」だったそうです。 また、戦争が激しくなり、本土に敵機が来襲するようになると、「ウー。ウー。ウー。ウー。・・・・」と短い断続音で、急いで防空頭巾をかぶり、非常袋をもって、近くの防空壕に逃げ込まなければなりませんでした。 このサイレンが置かれた火の見やぐらと同様なものが、学区内には、いくつかありましたが、これほどの高さはありませんでした。南町の岡崎家具屋さんの裏にあった火の見やぐらは、戦後もしばらくありました。 このサイレンによる午報の前は、午砲でした。昭和3年まで空砲を「ドカン」と鳴らしたそうです。更に、その前は、常陽芸分センター東側にあった鐘楼からの鐘を「ゴーン」「ゴーン」と、ついて知らせたそうです。 |
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28)水戸刑務所 その頃、県庁の屋上から(旧県庁)水戸刑務所の建物や庭を見下ろすことができました。水戸刑務所は、今の税務所、家庭裁判所・法務局など一帯のあるところで、周囲はコンクリートの高い塀に囲まれ、正面の入り口には、いかめしい警備員が立っていました。 囚人は、編み笠をかぶり、手錠をかけられて看守に連れられ、今の水戸地方裁判所と、この刑務所の間を往復していました。 この刑務所は、明治14年に茨城監獄本署といわれ、大正11年から水戸刑務所と改称されました。そして、昭和21年、現在の水戸少年刑務所として勝田市市毛に移転するまであったのです。 明治・大正時代は、ここに男女の囚人が収容されていたそうですが、昭和時代に入ってからは男の囚人だけとなり、女の囚人は栃木刑務所に収容されたようです。 身と刑務所の脇に差し入れ屋があり、刑務所へ箱弁を運んでいたのですが、私は、その家へよく遊びに行っていた関係で、一度だけ運弁運搬の手伝いをしたことがあります。そして、大変緊張したことを覚えています。 囚人の中で、赤半天は重罪人、青半天は軽罪人と聞いておりました。そして、刑務所外での作業に従事しているのは青半天だけでした。那珂川で川底の砂・砂利を舟で取っているのを看守が見守っていました。 昭和13年頃、私は旧北三の丸1**番地の住んでいましたから刑務所に近かったわけでです。囚人が脱走した時など、看守や巡査が捜査に当たり、ホイッスル(笛)を鳴らしたものです。私たちは、家の戸絞りをしながら、子供心におびえたものです。 |
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29)茨城会館 本県文化の活動拠点として、今の県会議事堂(旧県庁脇)のあるところに茨城会館がありました。 茨城会館のできる前には、茨城県公会堂が、旧県立図書館のあたりに大正3年に建てられており、600人を収容できる集会室があったり、物産陳列や美術を展覧する施設があったりしたのですが、昭和4年に焼失しました。 そこで、昭和4年に茨城会館が建てられ、オープニングには、当時、日本を代表する石井漠舞踊団が公演したと言われております。建設費は15万円で、鉄筋コンクリートの近代建築の3階建てで、2・3階がホールになっており、1200の客せいを有し、1階に食堂・会議室・事務所・売店などがあり、当時としては、県内随一の文化会館だったわけです。 私の子供の頃は、映画・演劇・公演などの大きな催し物などあり、この会館に行くことは楽しみの一つでした。映画では「ターザン」「ポパイ」ぐらいを覚えています。が、大人になってからは、芝居・交響楽・歌謡・講演などに接する機会もありました。 昭和20年の戦災によって、この建物も一部焼失しましたが、手直ししながら使っておりました。私も水戸二中の教員をしていたとき、ここで卒業式を行なったことがあり、子供心に憧れたステージで、卒業生の呼名をした時は、とても感激したものです。 県庁舎が手狭になり、茨城会館も老朽化したので、昭和41年に取りこわし、これに替わって、現在の県民文化センターにバトンタッチすることになったのです。今秋、その隣には県近代美術館がオープン予定され、文化活動の殿堂が千波湖の南岸に移ったといえましょう。 |
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30)図書館と教育参考館 現在の水戸二中の建っているあたりに、県立図書館と教育参考館、そして、彰考館文庫がありました。 この図書館は、明治36年に、水戸徳川家が3万冊の本を寄贈して造られたのです。周囲は杉木立の静寂な場所で、モダンな建物でした。入り口近くに子供用閲覧室があり、それ以外の部屋に子供は出入りできませんでした。近くにあった茨城師範・水中の学生の利用が多かったように思います。船橋聖一の小説「ある女の遠景」を読みましたら、この図書館のことが書いてあったので、水高時代に利用したことがあったのでしょう。 教育参考館は、大正4年御大礼記念に造られ、やはりモダンな建物でした。今で言うなら科学博物館の小規模な施設でした。武石浩波(たけいしこうは)の白鳩号の飛行機のプロペラ・動植鉱物の標本・人体模型・歴史的な遺物・立体模型地図などが陳列してありました。 図書館の付属として彰考館文庫は、れんが作りの近代建築でした。水戸徳川家が大日本史編さんにあたって、諸国から集めた書物・資料を東京から移し、貴重な文献の所蔵を誇っておりました。戦災で焼かれたものは少なく、ほとんど疎開したので、難を逃れ、現在は見川町の徳川別邸内に移されているそうです。ここは、子供たちの出入りはできませんでした。 昭和20年8月、戦災によって、これらの施設は焼失してしまいました。現在、県立図書館(*)は県庁構内にありますが老朽化して新築の声もあり、また自然博物館の建設の構想も考えられているようです。なお、徳川別邸に彰考館文庫が鉄筋建築で昭和38年に建てられ、更に昭和52年に徳川博物館が建てられました。(*注:現在、県庁舎は笠原町に移転しました、県立図書館は旧議会議事堂を改装して、県立図書館となってます。さらに、当所に茨城会館が建てられておりました。) |
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31)武徳殿(ぶとくでん) 現在の水戸二中のあるところに、県立の武徳殿がありました。 この武徳殿は、昭和4年の大演習で、天皇陛下が行幸する際、地元の武道の盛んな様子をおみせするために作られたと言われてます。 杉の木立に囲まれ、平屋建ての木造一階、瓦屋根、・回廊付きで、正面からの景観は、壮厳な感じのものでした。内部は、左が剣道場、右が柔道場と中央で仕切られ、床にスプリングもきいていました。正面には貴賓席があり、道場の回りには、畳敷きの観覧席をめぐらしてありました。前庭は玉砂利を敷き、後になって、左手に弓道場が付設されたと思います。 その頃、子供たちの間で、柔剣道熱が盛んになっており、三の丸学区では、柔道が高崎道場・森島道場、剣道が東武館で行なわれていました。それらに通っている者が、この武徳殿で寒稽古や土用稽古をしました。 私は剣道をしておりましたが、また剣道具を付けることができませんでしたので、素振りをしたり、有段者を目がけて「メン」「コテ」「ドウ」と掛け声をかけながら切り込ませてもらう練習をし、早く上達をして道具を付けたいと思ったりしました。初段をとったには、17歳の時でした。 この武徳殿も昭和20年8月、戦災で焼失してしまい、私にとって思い出の多い、この場所に水戸二中ができ、そこに勤務できたというのも因縁のあることだと思います。 現在、堀町に県立武道館が立派にできましたが、ランドマーク性や周囲の環境は、昔の武徳殿にかないません。 |
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32)競場場 那珂川べりの霞町に、競場場がありました。 これは、昭和9年に水戸市が49,000円を費やして設営したものだそうです。市としては、税外収入を高め、人出を予想した商店街のうるおいを期待し、軍司時代に入った為に産馬・軍馬の保護育成を考えたようです。 民有の畑を借り上げてコースだけを作りましたから、周囲は桑畑・麦畑などが多く、全く田園風景の中での競馬場でしたが、めーん・スタンドだけはコンクリートの立派なものでした。 春は5月1日、秋季は8月5日から、それぞれ4日間ずつ行なわれ、出場数も170頭ぐらいで、馬券は1枚1円(当時、宿料1泊1円50銭)ですから、大変高かったように思います。 しかし、水戸市の人工は6万人ぐらいであり、思ったより、近郷近在の人も集まらず、思うようにはいかなかったそうです。 当時、その競馬場で旗手をしたことのある石川武斎さん(柳河町)という方が健在のようです。 昭和13年、那珂川の洪水によって、この競馬場も水没し、戦争の激しさも加わって、競馬どころではなくなってしまいました。 その後、昭和18年に、私は茨城師範学校に入ったわけですが、この競馬場の一角が学校農場となっており、肥桶を学校から運んで、食糧生産にあたったものです。大根・ねぎ・とまと・なすなど、寮生が食べるものを実習しながら作ったもので、その度に、競馬場時代の思い出が作業の合い間によぎったものです。 |
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絵・横山洋三先生