南町三丁目商店街振興組合・ホームページ(水戸市南町3-4-16)

水戸の消えた風物詩・昭和十年頃の三の丸学区 新井 洋三郎 著(昭和63年3月発刊)
先生(著者・新井 洋三郎氏)は、昭和九年に水戸市立三の丸小学校に入学され、約50年後、母校の校長になりました。
その半世紀の歳月の中で、消えてしまった三の丸学区の風物を懐かしく思うとともに、それを記録に残しておきたいと以前からの考えがおありでした。先生は、発刊にあたり、この水戸市の中心地にあたる三の丸学区の風物は、「私に自然の美しさ、人と人との交わり、人間の哀歓などを教え育ててくれたものですが、たとえ消えてしまっても、この土地に育ち、その時代に生きた者にとって心の糧であり、今の自分があると思っています。 この半世紀は、史上かって例を見ないほどの社会変貌の激しい時代でありました。」等々を記され子供の頃の風物の中から50種類に絞り記述されました。又、挿絵を友人の横山洋三先生、題字を五嶋利秋先生、に頂き、地元の先輩の方々にもアドバスを頂きながら、著書に致した経緯を言葉として添えておられます。

今回、先生のご好意とご協力により南町三丁目商店街振興組合のホームページに掲載出来ますことに厚く御礼申し上げます。
項目は50を数え、残したい風物に21項目ございます。今回、32項目を掲載致します。
 尚、平成16年5月に改訂版を発刊されました、「城下町の面影、懐かしい生業、思い出の乗り物、季節、町にあった風景、消えた施設」等々60余の同事柄が装い新たに掲載されてます。

◎消えた風物

物見櫓位置図 1)水戸城の物見櫓
水戸は、天下の副将軍の城下町であったので、そのシンボルとなっていたのが、水戸城の物見櫓でありました。 水戸城は、鎌倉時代から江戸時代にかけてあった城ですが、その中で、水戸を城下町らしくしたのは、佐竹義宣であり、本格的に水戸城の改造も行い、今日残っている濠や土塁ができ上がったのもこの頃だと思います。 その後、徳川幕府の世となって、御三家の一つである水戸城が改築されましたが、天守閣のなかった水戸城の三階層の物見櫓の屋根も享保年間まで、木羽ふきの板屋根であったと言われます。その物見櫓は、明和元年(1764)に焼失し、明和三年にできた物見櫓が、昭和20年の空襲で焼失するまであったのです。
 この物見櫓は、1階は6間半四方、2階は4間四方、3階は3間四方の物見櫓でありましたが、鯱を屋根に上げていました。
 昭和10年頃、私は旧柵町3丁目に住んでおりましたから、その北側の台地上に茨城師範学校があり、その敷地内に物見櫓があったので、朝夕眺めることができました。
 この物見櫓は、水戸駅からも見え、長い間、水戸人の誇りであり、象徴ともなった建造物であったのです。
 私は昭和18年、茨城師範学校に入学したのですが、この物見櫓が好きで、これを写生したり、写真を撮ったりしました。また、上級生が下級生を呼び出して脅かす時も「天守閣(当時は、このように言っていた)に来い。」などと、この場所がよく使われていました。
 今、この物見櫓の復元をしてはどうかという水戸市民の声もありますが、全体的に盛り上がっていないというのが現状です。
物見櫓
東照宮位置図 2)東照宮の国宝
 三の丸学区の氏神様であった東照宮の例大祭(4月17日)には、学校の授業がなく神社参拝が、毎年行われていました。 
 その朝は、家族揃って神棚に灯明をつけ、お赤飯とおにしめで食事をし、どの子も盛装して登校したものです。
 先生に引率された私たちは、拝殿前で学年ごとに、二礼二拍一礼を、先生のまねをしながら行なった後、神主さんからオグフ(御護符)の紅白の菓子をいただきました。 
 この東照宮は、水戸初代藩主徳川頼房(よりふさ)が、日光の東照宮にならって、父徳川家康を祭神とし、社殿などが完成したのは、元和七年(1621)と言われております。
 その社殿は、権現造りで、本殿の屋根が桧皮葺き、拝殿が石の間であって、奏漆塗りの極彩色の美しい建物で荘重な趣のあるところから、大正6年(1917)に江戸文化史上の保存すべきものとして国宝に指定されておりました。
 ところが、昭和20年8月の戦災で焼失してしまったわけで、現在ある社殿は、昭和37年に鉄筋コンクリートで銅板葺の近代的なものに変わってしまいました。
 現在、県内で国宝としていされているものは、鹿島神宮にある直刀のみになってしまいましたが、この建物(本殿・拝殿)の重厚さや気品さは、東照宮の風格をそなえていたもので、三の丸学区の誇りの一つになっていたのです。
 それでも、東照宮の宝物として、国指定文化財の家康公佩刀の刀(則包作のりかね)県指定文化財の刀(吉房作)、薙刀(無名)や水戸指定文化財の常葉山(ときわやま)時鐘・安神車などが戦災から免れたということは、せめてもの救いだったと思います。

水戸東照宮
露天商 3)露天式市場(夜間)
 今、市場といえば、商人が集まって商品の売買をする場所ですが、戦前、水戸では夜間に露天式に店を出したものを「いちば」と呼んでいました。
 この市場は、日曜日を除き、旧県庁前・泉町広小路・大工町広小路の三ヵ所で順番に開かれ、「今晩は、県庁前が市場だよ」と、通称チャリヤという小僧がふれこみをしました。
 品物は、りんご箱のようなものを台にして、その上に並べ、照明は、カーバイトのガス燈でありましたが、その後、裸電球になったと思います。
 店の種類は、八百屋・果物屋・魚屋・金物屋・雑貨屋・佃煮屋・衣類屋・本屋などがあり、季節によって、金魚屋・花火屋・などが出てきて、歳末になると、しめ縄・門松・お節料理などが並べられ、大変な人出になりました。
 私などは、まだ子供でしたから三の丸学区の県庁前の市場だけしか外出が許されませんでしたので、その日の夜が待ち遠しいくらいでした。
 夜の市場に外出できる日は、学校から帰ると、宿題を昼間のうちにやってしまい、夕食を食べ、約束をした近所の友達と行くのがなりよりの楽しみでしたが、時たま、母について行き、買い物の大根などを運搬する役にあたったときは、自分の自由行動ができないことがあり、よその友達がうらやましく思えたこともありました。
 私は、ときどき知らない土地へ旅をすることがありますが、今でも函館市・高山市などの朝市はみても、このような夜市にぶっかったことはありません。その当時、よその街でも夜市のようなものがあったかどうかは分かりませんが、大変な活気がありました。
共同水道場 4)共同水道場
 現在、どこの家でも水道の蛇口は、いくつかもっており、最低でも台所・トイレに蛇口は付いていると思います。
 ところが、昭和十年頃は、1軒の家に水道がしかれている家は少なく、ほとんどの家が共同の水道をしようしていたのです。
 水戸市の上水道ができたのは、昭和七年ですから、それでも大変な便利な世の中になったわけですが、現在と比べようもなかったといえます。
 この上水道ができる前、三の丸学区の住民は、井戸水にたよっていたわけですが、どの家にもいどがあったのでなく、共同井戸か個人井戸を利用していたと思います。 
 当時、私が住んでいた柵町三丁目は、十軒ぐらいの家が、一つの共同水道場を使っており、蛇口がライオンの形で、それぞれの家に、水を出す道具(当時「鍵」と言ったと思う)を持っていました。
 ですから、夕方は混んで順番を待たなければなりません。特に、お風呂をたく日は、昼間、混んでいないときに、手おけを両手にぶら下げて、水道場と家との間を何回も往復しなければなりませんでした。また、普段に飲む水は、大きな水がめやおけに汲んで土間や台所に置いてありました。
 井戸端会議という言葉がありますが、近所の人々の集まる共同水道場は、一種の社交場であったと思います。近所で起きたできごとや情報は、水道場を通して伝わり、また人と人との交わりや親密の度合いも強かったのだろうと思います。
 その頃、三の丸小学校は、井戸水を利用していましたから何か所も井戸がありました。
大道商人 5)大道商人
 子供の頃、私は小学校から家に帰るまでの間、ずいぶん時間がかかったように記憶しております。それは、途中遊びをしながら帰ったからです。
 この大道商人に釘付けになることも、途中遊びの一つでした。私が帰宅するコースのなかで、大道商人出るところは、京成ホテル(昔の水戸市役所)の上がり口にある大銀杏の木の脇・水郡線の踏み切りのたもと・東照宮の大鳥居のところでした。
 大道商人というのは、大きな道の人の集まるところで、安物の品を口上よろしく通行人に売る人のことをいうのです。
 この大道商人は、その時、その時のよって、ある期間、品物を並べるわけですが、私の記憶では、「知恵の輪」「ガラス・ペン」「古万年筆」「バナナのたたき売り」また、「詰め将棋」「詰め碁」などがあったとおもいます。
 また、三の丸小学校の校門前にも、「ひよこ」「えんぴつ」「ノート」「写し紙」「型ねんど」「青写真」などを、子供の購買心を誘うような言葉をかけながら出ていることがあり、家から小遣銭をもって買いに出かけたものです。
 大道商人の回りにおとなたちが群がって、売り口上を聞いたり、品物を選択したりしている中で、私たちは、学校帰りなので、がばんを背負ったまま飽きることなく、一番前に出ていって品物を眺めたりしたものです。
 時によって、「子供は邪魔だから帰りな!」と、大道商人に叱られることもあり、私たちは、すごすごとその場を立ち去らなければならないこともあります。
豆腐売り 6)かけ声により物売り
 その頃、私たちの住む町内に、かけ声をかけながら、物売りが来たのを懐かしく思います。
 子供に人気があったのは、玄米パン屋です。
「玄米パンのホヤホヤーーー。」と語尾を長く伸ばしたかけ声でした。自転車の荷かけ台に、四角い木の箱をのせ、その中に白い布で包まれた温かい玄米パンがあるのです。
 私たちは、一銭か二銭ぐらいしか使えませんでしたが、五銭を出すと、あん入りの玄米パンが買えました。玄米パン特有の香りと味は、子供の購買心を誘うものでした。
 毎朝、納豆売りが「納豆、納豆・・・・」と、ねばっこいイントネーションで、かごに藁つづの納豆を入れて売りにきました。「納豆屋さん。」と、あちこちから声がかかって、からしなども納豆を買うと付けていき、専ら男の人が多かったようです。
 初夏の風物は、金魚屋が天びんを肩にかけ、前と後ろに大きな水槽に金魚を入れ、「金魚ーーー。」「金魚ーーー。」と流ちょうな調子で売りにきました。記憶の中では、和金魚だけだったように思います。私は、洋金魚を見たのが、枝内浄水場でしたから、ずっと後になってからです。
 四角い箱が引き出しになっているものを背負い「七色とうがらしーーー。」と尻上がりの口上でやってきたのが唐辛子屋です。客の注文により大辛・中辛などと調合して袋に入れていくのですが、これは男の人で、着物の尻をはしょって、威勢がよったのが印象的でした。
鳴り物 7)鳴り物による物売り
 夕方になると、豆腐屋がラッパを「プーーー、プーーー」と鳴らしながら自転車でやってきます。
 豆腐屋に用のある人は、それぞれ鍋を持って買いに出ます。豆腐・油揚げ・がんもどきなどを持ってきたようで、今と同じ製品だと思います。
 特に、運動会や遠足の前の日は、どこの家でも豆腐屋がくるのを待って、私などは買いに行ったものです。
 ときどき、デンデンあめ屋がやってきました。太鼓をたたきながら手ぶり足ぶりをして踊ったり、歌ったりして、頭の飯台(浅いおけ)のまわりには、手作り小旗を何本も立ててありました。あめ屋は女の人で、かすりの着物にたすきをかけ、赤い前かけで、手甲・きゃはんを付けており、京都の大原女の姿と似ていたと思います。あめは、白い棒あめで粉が付いており、金太郎あめのときもありました。子供心に、服装や言葉使いが違っていたので、遠い土地から来たのだという印象を受けていました。
 小型ボイラーの蒸気の音を立てながらやってきたのはが、キセルの羅字(ラウォ)のすげかえ屋です。
 当時、きざみたばこを吸う人が多く、キセルを使用したので、キセル掃除をしたり、竹の部分を替えたりする商売をしていたのです。
 キセルという言葉は、カンボジア語で、「管(くだ)」を意味し、キセルに用いられた竹管を羅字と言っていますが、これは地名で、竹の産地であるということも後でわかりました。
辻角 8)辻角(つじかじ)での物売り
 その頃、一銭店屋のようなものが、町内に一軒ぐらいずつあったようです。あめ玉一個は五厘で買えたように覚えています。この一銭店屋で売っていないようなものを町の辻角で、みかん箱の上などに並べて物を売る店が出ました。
 米の粉をふかして練り上げたしんこで、「しんこ細工屋」は、客の注文によって、うさぎ・にわとり・さかななどを作りました。大体の形ができると、はさもで細かい部分を作り、赤に着色したしんこで、うさぎの目やにわとりのとさかに色彩りしました。味は、白砂糖をまぶしたり、作ったものの内部に入れたりしていました。
 私たちは、それを食べるよりも器用に作る様子を飽かずに眺めたものです。しかし、今、考えてみると、手で練り上げるしんこ細工は、不潔のように思え、特に風のある日は、ほこりをまもともに受けるような気がしております。
 鯛あめ屋は、ブリキ缶に鯛あめを入れ、簡単な屋台を出して辻角に店を開きます。子供の好奇心をそそるため、長さ5cmぐらいの小さな鯛の形にすじが付けてあり、これを針できれいに型どると、大きな鯛あめの賞品が出るような仕組みになっていました。
 私たちは、一銭払って、これに挑戦するのですが、なかなか思うようでなく、途中で失敗し、その失敗したあめだけで終わるのことも、しばしばでしたが、当時としては、この鯛あめは最高の美味の感じていました。
薬売り 9)富山の薬売り
 今も富山の薬売りは、家によってくる所もあるようですが、昔は、今のように薬屋が点在していなかったので、どの家でも富山の置き薬を使用していました。
 その頃、「越中富山の千金丹、鼻くそ丸めて団子にしょ」などと悪い替え歌を歌ったのを覚えています。
 薬売りは、若い女の人が多く、紺色の大きな風呂敷を背負って、紺がすりの着物に足袋を履き、赤いたすきに姉さんかぶりの手拭の服装でした。  
 私の母などは、遠くから出稼ぎにきているという同情もあって、「よく、今年もきましたね。」などと言って、お茶を入れたり、寒い日には、こたつに入れさせたり、帰りに菓子などを持たせて帰すこともありました。
薬を置いていく際、紙風船などを「おまけ」に置いていくので、私たちは、それをふくらませて、風船つきをしたものです。
 薬は、大きな袋に入れ、その表には、薬の会社のながあり、裏には、薬品の一覧表が印刷してあり、その年に置いていった数量が記入されていました。
 その袋には、紐が付いており、私の家などは、座敷の柱にぶら下げ、家族のみんなが、いつでも利用できるところに置いていたものです。
 毎年1回、来るたびに使用した分の金額を支払い、残品を新品に換えていくのです。
 こういう遠くから行商にくる人のために、水戸駅を中心に木賃宿(きちんやど)というものが、10軒ぐらいはあったと思います。
行商 10)行  商
 各家を回っての物売りは、今でも多少ありますが、現在では、店舗もたくさんあり、交通も便利になったので、趣が大変違ってしまいました。
 卵屋が、かごを背負って、ときどき見えました。卵屋は、農家で鶏卵を買い集め、卵を買いそうなお得意さんだけを回ります。
 当時、鶏卵は、他のものと比べ、大変高価で、ぜいたく品だったようで、私なども1ヶ月に1度か2度しか口にすることはできませんでした。
 天びんばかりで、卵を小ざるに入れて計り、今のようなグラムやキログラムの単にでなく、匁(もんめ)・貫(かん)などの単位でした。
 リヤカーに、いくつもの缶をのせて、やってきたのが油屋です。今のように食用油が大豆を原料にした白絞油(しらしめゆ)やサラダ油と違い、菜種からとった種油やごま油をもってきました。
 油屋は、客の注文によって、1合とか2合とかを升で計って、じょうろで一升びんに入れます。「ごま化す」という言葉がありますが、ごま油の方が高かったので、種油をごま油に混ぜて「ごま油」だと、だますことからきているということを後で知りました。
 当時の女の人は、髪に油を付けていたものが、びん付け油というものです。これは街の店にも売っていましたが、時おり「大島の椿油」だと名乗って、男の人や女の人が、小びんに入れて売りにきました。
小間物 11)小間物屋
 大きな荷物を背負って「はい、小間物屋でございます。ちょっと見てやって下さい。」などと言いながら、返事をする暇もなく、上がり口に荷物を下ろして、裁縫用品、化粧品、櫛などを取り出すのが小間物屋でした。
 富山の薬売りと同じような格好はしていますが、荷物の形が違っていました。また、人をそらさない話し方は、訥弁(とつべん)の水戸の人などとは違っており、お母さん方は、上手に買わされたのでしょう。
 そして、小間物屋が雪国の加賀(石川県)や越後(新潟県)から行商に来ているということを母から聞かされたりしました。
 なぜか、小間物屋が物を広げたりしているときは、他の行商人が来たときと違って、私のような子供は「外で遊んできなさい。」と言われましたから、余り細かく品物は見られませんでした。
 多分、私の母は、昔気質の人でしたから、女に関係する品物などを男が見るものでないという考えがあったのでしょう。また「男は、用もないのに台所に入ってはいけない。」と、しつけられたことを考えてみて、後になって「外で遊んできなさい。」の意味がうなずけました。
 やはり大きな荷物を背負ってきたのが古着屋です。
 この古着屋は、柳行李(こうり)に古着をぎっしりつめて、回ってきます。この頃は、町内のお母さん方で、洋装をしている人が一人もおりませんでした。ですから夏には夏物、冬には冬物の着物や帯が必要で、新品を購入するのが大変だったので、古着屋を利用し他のでしょう。
12)兵隊紙芝居
 紙芝居は、今のようにテレビや絵本などがなかった時代でありましたから、子供にとって魅力的なものでした。
 兵隊紙芝居というのは、紙芝居のおじさんが、人寄せに軍隊で使うラッパを鳴らすので、皆が、「兵隊紙芝居」と言ったと思います。
 ラッパが鳴ると、私たちは一銭を持って、いつもの紙芝居をするところに駆けて行きます。それでも、先着がいるのです。前のほうのよい場所を取るために先を争うわけです。
 一銭で、紙芝居屋さんから、あめを買って、紙芝居を見る権利を得るのです。そのあめは、白い棒あめで、口の中で溶ける美味と、それをくわえながら紙芝居の物語に恍惚となったものです。
 紙芝居の出し物で、記憶に残っているのは、「黄金バット」が印象的でした。後になって、分かったことですが、この「黄金バット」は「加太こうじ」という大衆演劇評論家の作だったそうです。
 紙芝居を見ているのは、子供だけではなく、時によって大人たちも立ち見をしてました。紙芝居を見ている間、無駄話をしている者はおりません。身銭を切って見るのですから厚かろうが、寒かろうが、その時間は大切で、雨の日などは、物語の続きが見られず、がっかりしたものでした。
 もう一人、紙芝居をするおじさんがいました。その人は拍子木(ひようしぎ)を鳴らして人を集めをしており、優しい口調で、おとぎ話の内容をペープサートのようなものも使いながら紙芝居をしていたように記憶しています
13)神楽
 正月には、各家へ神楽をする人が回ってきました。
 私たち子供は、その神楽をする人の後を、ぞろぞろと付いて歩きました。神楽をする人は、時によって違い、多い時には6人ぐらいいたと思います。リヤカーに道具をのせ、神楽をする人が多ければ多いほど、いろいろな芸を見せてもらえました。
 水戸太神楽(おおかぐら)は、水戸東照宮御祭礼御用神楽であったという由緒深いものだそうです。私たちの街には、下市の「海老さん神楽」が来ましたが、現在は、上市を受けもっていた「豊来家宝楽」の大高さんだけになってしまい、昔のように各家を回るということはなくなりました。
 神楽をする人は、各家を回り、悪魔はらいをするわけですが、後で調べて分かったのですが、次のような形式で舞ったようです。
 「能の舞」袴羽織の正装した二人位で扇固(おおぎがた)に舞う。
 「四方固め」東西南北をはらうように舞う。
 「幣の舞」一人で両手に幣を持って舞う。
 「鈴の舞」右手に鈴、左手に幣を持って舞う。
 「狂い獅子」半天股引姿で、獅子頭を付け、三匹が激しい動きで舞う。
 「邯鄲(かんたん)夢の枕」獅子の居眠り。
 「毬のたわむれ」獅子が毬とたわむれる。
 「ひょっとこ」ひょっとこが登場して、獅子とたわむれる。
 「きんじょう」治めの舞い。
 以上のようになっているそうですが、その他に「「傘の曲」「出刃皿の曲」「曲輪」「長撥の曲」などの曲芸に胸を躍らせたものです。

今回、可能な限りを載せて見ました、まだまだ、興味深いものが沢山ございます。
本自体は市販されませんでしたので、ホームページに記録として一部を残しておきます。。

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(著者の許可なく無断転載を禁ず)
 

表紙題字

著者略歴:昭和23年茨城師範学校卒業・23年水戸市立三の丸中学校教諭・24年水戸市立第二中学校教諭・35年水戸市立新荘小学校教諭
45年茨城県教育庁指導課指導主事・53年水戸市酒門小学校校長・55年茨城県教育庁指導課小中係長・57年茨城県教育庁文化課長
60年水戸市三の丸小学校長・幼稚園長
・・2010年頃他界されました