南町三丁目商店街振興組合
特集 竹脇元治 「旧市街地・中心商店街・再生への道」 P7

平成12年11月12日

≪12≫時代祭の更なる発展を願って

出発点は追鳥狩の復活 第4回水戸藩時代祭が11月5日,秋晴れの中で下市地区・上市地区の商業中心街区で総勢700人による勇壮な時代絵巻の再現として繰り広げられた。
 この祭りのきっかけをつくったのは、この「中心街再生の道」へ時折登場してくる友人の故・滝口統雄氏の≪追い鳥狩りを復活させてみたい≫その気持ちだった。十数年前に、南町地区でアーケードの再築問題が出た際に、水戸藩の史実として残っている軍事訓練の1つに「追鳥狩り」があり、それを記した絵巻をを見た彼が、その歴史性を町の中の生かそうと考えたのが「アーケードにその武者行列を飾る」それが歴史の街へのアピールにならないかとの発言が出発点だった。 その後アーケードに関しては歴史性とは正反対の,現代的なデザインの波型で完成してしまったが、彼の意思に共感をし、「やってみよう!」と水戸市商店会連合会会長の内田泰弘氏の力強いバックアップもあり、二度ほど開催された「追鳥狩武者行列」がそれだった。 経費負担が多いため、数年毎の開催にしようとの話から、いつの間にか立ち消えになってしまった祭りだ。今、その名残を観られるのは、「日本一の陣太鼓」を乗せている山車だ。滝口氏が常々言っていたのは、「祭りはストックで育っていく」だった。 それは物であれ、組織であれ、人材であれ、次の段階への付加価値を常に加えていかなければ伝統は守っていけないし、魅力を失うことを彼は考えていたのだと思う。
秋祭りの目玉に育った時代絵巻 四年前、第1回の水戸藩時代祭の取りまとめ役をやらされていた私は、諸事情によりパレードでは、徳川慶喜役で馬上からの参加もさせてもらった。本来は裏方の役割の立場であるべき者が・・・・・・との問題もあったが、貴重な経験をさせていただいたと思っている。 そんな馬上の私が、初回の祭りで京成ホテルの坂道を銀杏坂下へ下がって来た際の目にした光景は、今でも目に焼き付いている。学生時代に横浜みなと祭りにアルバイトで参加した数十万人の人垣の中での行進以上の、身動きがとれないくらいの人、人、人がそこにいたのだ。 私は、自分が出場者だということすら忘れ、「この黒山の人垣は、いったい何なのだ、何が起きたのだろう」とただ驚いて眺めてしまった。われに返ってみると、カメラのシャッターのシャワーの中だった。馬に乗ることには、十数年の乗馬暦があるので不安も持たずにいたためなのか、余計な思いを巡らす余裕が出てしまったのかもしれない。人出に関しては、それぞれの方法で算出基準が違うため、数値については何とも言えないが、大工町の最終地点まで二重三重の見物人が続いていた。第2,3回目は体調不良で見てないが、新しい工夫も取り入れた東武館の豆剣士たちのかわいらしい姿や、川越の火縄銃鉄砲隊の連続発砲にも多くの拍手が起きていた。
行進型催事の演出の難しさ  パレード方式のイベントは、先頭から順に途切れることなく続くのが一番なのだが、ちょっとした手違いが、次々とつぎの段取りを狂わせ、途中の空白地帯を生んでしまっりする。水戸芸術館にも専属の演出家もいらしゃるのだから協力をしていただいたらとも思う。  例えば、100bごとの行進が停止し、三分程度の演技なり発砲を一斉に各持場で行い、再び一斉移動をするなど、シミュレーションを単純で分かりやすくし、各参加者たちに理解されなければうまくいかないものだ。 企業協賛の形で参加していただいている方々も多く、ただ何もせずにダラダラと歩くだけでは苦痛に感じるだけだ。その方々にも、ちょっと走ってもらったり大声を出し合ってあたかも通信をしているかのような作業をつくってあげてもよいのではないかと思う。さらに毎年協力していただいている相馬野馬追いの方々に「伝達馬が通ります!」とでも叫んでもらい、その声で参加者たちが道を開け、その中を安全な速足程度の速度で各部隊の間を数回ずつ移動してもらうだけでも(三,四頭)祭りの雰囲気は一気に変わってしまうはずだ。そして、これを合図に次の行進への出発とするのもよい。今回のはしご乗りや、寸劇の楽しい演出もよかったが、何の見せ場のない区間での穴埋めとしても、行進の方々の気分転換も兼て、野馬追いの方々の馬が走って行く姿を見るだけでも十分鑑賞にたえられるものだ。
時代祭りの方向性 この祭りは経費的なものから隔年方式にしては、との声も出ているが間を置くと、組織的にも一からの出発になり作業の負担が増大する。縮小してでも続けるべきと思う。夏祭りから黄門行列を分離させ、秋は見せる祭り。夏は市民の楽しむ黄門祭りに色分けした意義を再確認していただきたい。観光ボランティアの方々のアンケート調査等も参考にして、こんな時代だからこそ、前向きに行ってほしい。

平成12年11月26日

≪13≫失って痛感する相棒の偉大さ

街づくりへのプロセス  もう20年以上前になってしまうのか、南町三丁目のサンクスから県信本店への横通りでお好み焼き「雀のお宿」のマスターをしていた人物が、私の相棒でもあり、水戸市の商業活性化に力を振り絞っていた男、滝口統雄氏との出会いであった。一昨年の正月、残念ながら病魔に勝てず、この世を去ってしまったが、彼の残した街への思いは、壮絶と呼ぶにふさわしいものだった。高校時代は重量級柔道の無敵の王者であり、大学でも活躍をしていた。そんな猛者の残像を背負って東京から戻ってきた彼に会った第一印象は「大きな人」だった。 町内の青年部「南芽会」へ入会した彼は、なじむ隙みなく頭角をあらわし、ゴルフと飲み会が中心だった南芽会を「学習・研究集団」へ変身させていった。私の店には、ほぼ毎日、昼食の忙しい時間を過ぎるとエプロンのコック帽の姿で現れた。そんな彼と私は常に興味の対象や思考回路が正反対の方を向いていたおかげで二十年間ペアを組み、彼のパワーに圧倒されながらも、次々と街区のための事業展開を続けてきた。 そんな中で最初に取り組んだのが先進地の視察と研修会・講習会への積極的な参加だった。現在大洋村の村長「石津政雄」氏を講師に呼び(当時、東京大学の教官)、毎月のように1回5時間程度の授業と討論会を開いたりもしていた。同時に青年部の結束を増すために、夏まつりの山車を自分たちで製作したり、祭りのイベントを仲間たちの手作りで創り出したりもしていった。目に見える、具体性のあるものは、各人の連帯感を持たせられるものだった。
黄門さんカード事業への出発 かつて南町連合商店会は、中元・年末と年2回の売り出し事業が中心での活動だった。これを今たら8年前、南町地区全体で大型店や郊外店対策として一年中何かのサービス提供をしようと考えたのが黄門さんカード(ポイントサービス)だった。これには滝口氏の行政から協力を受けられる補助金・助成金などの予想と、確実な申請手順などの裏づけがあってこその出発だった。私は、スポーツ観戦や旅行・情報誌の発行を担当した。当初、広域型商店街としては全国的にも取り組みの少ないポイントカード事業のため、注目もされたが、現在は休眠状態になってしまった。 こうなった要因には、下地のないところからの出発(シールサービスなどを実施し、それを発展させポイントカードに移行)や参加店が当初の予定を大幅に下回ったこと(興味を持ったが、参加に踏み出すまでの理解を得られなかった。)広域型のため、客単価は高額であっても利用頻度は低く浸透しにくかったなどが挙げられる。年間を通して南町街区への来街者の方々に皆の協力でたのしいサービスの提供をしていこうとの企画だった黄門さんカードはいつの間に、そのエキスを大型店の来店頻度を高めるためのポイントカードサービスにすり替わされてしまってる。
個性ある街区を目指して 今、水戸市内でアーケードがあるのは、宮下銀座、郵便局前、南町三丁目、雷神前だけになってしまった。大きなビルにとっては不用のものでもある。オープンモール化と称して全国的に消えつつあるが、本音はどうなのであろう。私たちの数回のアンケート調査では、年代にかかわらず75%の方々が必要と答えている。管理職や行政の中枢にいる方々は九割不用と答えてい。自分で歩いたり、買い物をしない方々のせいかもしらない。商店街側も、補助金や低利の借入金でつくることは可能であっても維持経費と長期間の返済が負担になってしまう。当街区の照明代は年間約四百万円、返済金は壱千万円を必要とする。それに修理などの積み立ても必要になるのだ。その辺がためらいの原因になっている。 これらを考慮しながらも、あえて設置をしたことは、あくまでもお客様を思ってのこと以外に何もない。ただ目ざわりにならないように波型で街の中を浮遊しているものにしてみた。
歩く楽しさ発見に出会う街  滝口氏と街並みを考える時「芸術館とのかかわりをどうしようか?」が常にあった。そして考え出したのが国道上では例のない「ストリートギャラリー」の設置だった。さらに」それらの中核になるべきハーモニーホールには、小さなスペースながら工夫をこらした展示場と40人程度の小集会室をつくってある。水戸芸術館では対応できない庶民のアート空間を街の中につくってみたいと思ったからだ。そして今、この会館建設と運営企画に深くかかわってきた滝口統雄氏の「追悼・統雄の折り紙再会展」を12月20日(水)より1月14日(日)まで開催をする(日曜と年末30日〜年始3日までは休館)。公民館での折り紙教室や、種々のサークルへの出前教室での彼の姿を思い起こすと、もう一人の統雄氏が見えてくる。

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