南町三丁目商店街
特集 竹脇元治氏「旧市街地・中心商店街・再生への道」P4

平成12年8月13日

≪6≫二つの夢を食べる男

一つ目の夢の見納め 一昨年の正月明け、ある店が閉店をした。店中が花束にあふれての閉店の日だった。この花束の山は、この店に通うことを楽しみにしていた顧客からのメッセージだ。25年間、音楽文化を売り続けていた「フジ・ディスク」の店主、木村昭二氏はレジカウンターの中で、奥様、そしてベテラン販売員の大谷氏とともに「こんなにたくさんのお客様に惜しまれて閉店できるなんて、本当に幸せだよね」と語り、なじみ客は「自分が最後の客」となるべく、閉店時刻を過ぎても次々と現れた。 約30年前、静岡スバルのトップセールスマンだった木村氏は「スバル360」という小さな車の販売をしていた。彼の車を売るに当たっての工夫は「予備のバッテリーを常に持っていること」だった。そのころ、スバルの小型車はバッテリーの故障が多く、修理依頼や交換も多かったらしい。彼は常に手元にある交換バッテリーで、それらの苦情をその場で解決することで「トップセールスマン」としての当時の販売記録をつくっていた。客が客を紹介してくれたのだ。 そんな彼が学生時代から思いの強かった「音楽」(特にジャズ)を仕事にできたら・・・と始めたのがレコード店の開業(27年前)だった。数字をでフォルメした壁面の内装、真っ赤なレコード入れの袋、まさに時代を先取りしてる店だった。しかも出店の場所が、レコードメーカーの人たちからも「あそこでは無理」といわれる所を選んだ。当時の地域ナンバーワンの「三光社」や売り場の大きい「カワイ楽器」が目と鼻の先にある場所で、しかも売り場は競合店の三分の一程度の広さでの出発だった。(水戸中央郵便局の斜め前)売れ筋の演歌は置かない。クラッシックもない。「ロック・ジャズ・ポップス」を中心に、今までにない顧客を絞り込んでの出発だった。サービスカードによる固定客づくり、レコード会社の販促景品やポスター等を用意し、「市販されていないものをサービスに使う」これらの方式は、若者に「赤いレコード袋を持ち歩く」ことを一つのステータスに感じさせるまでにしいった。
おしまれての閉店 売上額の坪単価は、全国的に見ても指折りの店になり、レコードメーカーの役員までもが視察に来るような店に成長していった。そんな店を閉店するに当たって、音楽を大事に育てる雰囲気がない時代になり、使い捨て、効率だけが先行し、売る楽しみが消え、流通販売経路にも不透明感が予測され、この辺が潮時と思い、もう一つの”やってみたいこと”に挑戦できる限界の年齢になったことも、踏ん切りをつける要因だったとも語っていた。 木村氏とは、16、17年前にヨーロッパを一緒に旅をしたことがある。当時の彼はアンティークのコーヒーカップや懐中時計、腕時計、壁掛け時計等のコレクションを始めてていた関係で、旅先各地で骨董品店めぐりや、ロンドンでは知人の業者をホテルに招いての品選びにも付き合ったりした。パリの骨董品店ばかりの集合ビルでは、美術品としての価値の高い品々も販売しており、各個店への入店も制限があり、販売員の人数以上は店にすら入れてもらえない。当然、私にとってはケタ違いの商品をカギを掛けられたドアの外からの見学するだけの貴重な体験もさせてもらった旅だった。その後、彼は数回の英国骨董の旅や香港への掘り出し物めぐりなどを繰り返し、コレクションに深みを増していった。
二つ目の夢の実現 レコード店「フジ・ディスク」経営の25年間、彼は旅行以外の休日を楽しむことをほとんどしていなかった。この2年間、今までの分の休息を十分に取り、「山の中・川の流れ・野菜作りや花を楽しむ・ジャズと骨董品好きの友人が時折り訪ねてくれる・・・そんなコーヒーショップを造りたい」、その願いを今年の4月に実現させた。県北美和村「道の駅北斗星」から烏山へ向かって1キロ「ル・トン」と呼ぶ店がそれだ。食事は数日煮込んだカレーとハヤシライスだけ、フレッシュジュースと手作りケーキ(フレンチレストランのシェフをしている息子に仕込まれた)、そしてすっかり日焼けをし健康なおじ様になった木村氏の入れるコーヒー・・・そんなことより、店に入って驚かされるのは吹き抜けの天井にまで並んでいるアンティークの壁掛け時計・ガラス棚のクラッシックカメラ・大型のスピーカー・カウンターには腕時計・・・初めての来店客から聞こえるのは感嘆の声とため息だけだ。 小鳥の声で目覚め、開店前にテラスでジャズを聞きながら飲むコーヒー。「いや〜本当にこれで良かった」としみじみ語る彼の表情からは二つ目の夢を手にし、ケタ違いの売り上げになった小銭の音も子守歌に聞こえているのだろう。木村氏の商いへの工夫や心地良さの提案は都市街区の中でも必要なものであり学ばなければならないと、美和村へ行く私なのです。
                         

                                 平成12年8月27日

≪7≫黄門まつりの中核に山車を備えよう

消えた自前の祭り 第40回黄門まつりを久しぶりに見学した。長い間、商店街や祭り実行委員での企画・運営の立場にいたため、距離を置いて見たのは久しぶりだった。昭和20年代、戦後の復興を願って復活した夏祭りは、七夕飾りと山車の運行だけだった。南町・泉町・大工町の商店街中の祭りが、「市・会議所・観光協会・女性会・市子供連合」等を抱き込み、全市をあげての行事になった。 テレビドラマ「水戸黄門」のタレントを呼んでの大名行列、関東近県の県警マーチングバンドのパレードなど、昭和50年代が一番華やかな時代だった。 行政がらみ以前の祭りは、商店街が自分たちで七夕飾りを作り、山車に乗って太鼓をたたく自前の祭りだった。いつの間に飾りは業者に依頼、催事もイベント業者に委託する方式が増えてしまった。集客力のある中核イベントは、行政主導にすり替わり「水戸市は、もっと人を呼べる企画を出して下さい」などと、商店街が他人事のような立場に立っている現実がある。年々しぼみつつある企画の中で「活」を入れたのが青年会議所を中心にした「みこしフェスティバル」だった。南町の宮本誠氏を中心に大人の「みこし」の復活(過去には各町内で一基ずつ必ずだしていた)は、周辺部からの参加も増え、祭りの目玉として定着をした。
人出が増加した今年 タレントを呼んでの大名行列が姿を消し、前夜祭の花火だけ威力を示し続けていた行事に、今年は変化が見られた。市民カーニバルの踊りの曲調がアップテンポになり、参加チームも増え、それらに対する期待感が人出の増加につながったのだろう。大工町地区まで歩いてみたが全地区とも観客が連なっていた。何らかの仕掛けや工夫を続ければ、まdまだ水戸の祭りは生き残れるだろう。 ごった煮の祭りとの評価の強い黄門まつりだが、行政主導では成り行きでそうならざるを得ない事情もある。そんな中、大名行列を秋の時代祭りに移行させた英断は、祭りのスリム化と、市民を中心にした楽しむ祭りへの方向性を明確に指示してくれている。
水戸の街を支えてきたもの 商業・行政の中心都市として水戸の街は生きてきた。街自身の人口は他の府県から見ると、集中度が低い県庁所在地だ。にもかかわらず、商都として成り立っていたのは、周辺の市町村からの流入による昼間人口の多さが基本にあったからだ。各都市の商業施設の充実さから、水戸市中心街の商圏は大きく落ち込んでいる。 それでも生き残りの努力をしている個店はたくさんあり、水戸でなければ買えない品ぞろえや、比較する楽しみの提供をしている。その大半が周辺からの通勤、通学を含めた人々との目的買いのお客様たちだ。 祭りも同様で、今年商店街で参加した4台の山車の太鼓のたたき手は、一般公募で集まった商店街以外の人たちが多数参加している。地元だけのグループとしては、三の丸学区の子供たちを中心にした東照宮の子供山車。下市紺屋町の若連の山車。久慈浜から毎年参加してくれている有志たちも浜連の自前の山車だ。
なぜ山車にこだわるか 水戸の街の祭りに50年以上伝承されている「おっしゃい・春こま・とっぴき」などは、もうすでに伝統芸能として認められるべき太鼓の「技」と考えられる。せっかく残されている文化の一つゆえに大きく育ってほしい。南町2丁目、3丁目や泉町連合以外でも、過去に参加があった郵便局グループや、可能性も十分にある各企業の太鼓連の新規導入も、一つのネックとして考えられるのが、山車の保管場所の確保なのだ。この辺を市の遊休地の提供をしていただくことで、自前の山車製作に拍車をかけてほしい。水戸の中心街は一本の線のみで、ひたすら長い。これはパレード形式のイベントには、ぴったりのものなのだ。弱点と思われがちなこの地形を上手に利用し、長時間にわたって運用できる山車に優れるものはなかなか見つけられない。
山車・みこし・踊りを三本の柱に 無双山の優勝パレードを見た時、これだけの人々を一気に集め、楽しませる商店街は県内を見回しても水戸だけで「ぜひ生き残らなければ」との思いを強く感じたことがあった。 みんなに支えられて生きてきた街ならば、祭りをみんなに呼びかけをし、「茨城の山車フェスティバル」をつくり出せばよいのではなかろうか。20台、30台の山車が街を埋めつくすだけで、十分絵になる祭りに成長するはずだ。太鼓若連の仲間たちは、それぞれ1ヶ月以上のけいこをし、手をまめだらけにし汗を流してる姿を見るにつけ、各町内の小さなイベントを中止し、周辺からの山車グループへの協力に費用を回すことで(移動費等)『祭り人たち』は楽しみとエネルギーの発散に水戸の街へやって来てくれるはずと思っている。


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