南町三丁目商店街振興組合
特集 竹脇元治 「旧市街地・中心商店街・再生への道」 P17


≪44≫黄門さんおしゃべりパークの完成・その1 平成14年3月28日(木)

二つの街区の共同事業 去る3月23日(土)、24日(日)の両日、梅香トンネル(3月26日開通の気象台下から紀州堀への道)にともない地上部の南北連絡道路に生じた小さな残地を、単なる緑地としてだけでに残さぬ様、水戸の観光ポイントの一つとして何か作れないかと、南町三、四丁目の二街区の店主たちが知恵をしぼり考えたのが「黄門さんおしゃべりパーク」(命名者・小学五年生の会沢春佳さんの応募名)だった。 中心街区に関わる大規模道路整備は昭和20年後半の道路拡幅(南側の商店が16m程度セットバック)以来のことで、梅香トンネルは根本町から駅南、千波方面への渋滞解消を見込んでいる。 これを機に黄門さん通りの名称がいまいち浸透していないメインストリートに少々工夫された黄門像を建てることを前提に話しを詰めたところ、出てきたのが、黄門さんの骨格から想定さる「肉声に近い声」を聞けるようにしてみようとの発案だった。そして一連の事業は、市民を抱き込んだ形で進めるべく、公園名も黄門さんの言葉も一般からの公募で決めることにした。 像自体には発声装置を付けられないため、隣に印籠(いんろう)を置き、楽しさの演出もしてみた。この音声装置は当初「ひと声」だけだったが少なくとも季節ごとに変わる四種類の声にしようとの結論になった。新聞、ラジオ、市の広報、ミニコミ誌の協力をいただき、不安だった応募作品不足がウソのように最終二週間で応募作品が殺到した。その作品の中から事前選考後の残った作品を半日がかりで検討し選ばせていただいた。
黄門さんの春の声を聞く 春は黄門さんの言葉と一緒に鶯(ウグイス)のさえずりが聞こえるものとしている。3月12日に像の設置が終わり、17日に印籠が取り付けられた。音声試し聞きを皆でした日の朝、偶然にも私は犬の散歩で徳川博物館の東側、偕楽園下の公園を歩いていた。そこで上手と下手の入りまじった鶯の競演を聞けた。散歩中のご老人も立ち止って耳を澄ましている。「いやー。いい声ですね」とお互いに声をかけ合った。その日に今度は印籠から聞こえる鶯と黄門さんの声を聞き、なんとなく幸せな気分の一日を過ごせた。 春の言葉に選ばれたのは水戸市笠原町の笹沼洋子さん(40歳・主婦)だ。水戸は自然に恵まれており、その水戸の持つ、“のどかさ”をイメージして考えたと聞く。そして街を歩いてみれば良い所も多く、買い物の途中などにこんな公園でひと休みする方々が増えれば商店街の活性化にもつながるとの思い出で作られた言葉『春』・・・鶯の鳴き声・・・「この声、ゆっくり聞いてからでも遅くはないじゅ。それほど急いでも仕方あるまい。一休みじゃ。眼をつむって耳をすませば聞こえるであろう、心なごむさえずりが。己の人生、あせってもあせらんでも結果は同じじゃ。今宵、ここに泊まるとしよう。助さん、格さん、明日は偕楽園の梅の様子でも見てこようかのう」になった。時代考証からすれば光圀公の時代には偕楽園はまだ無いのだが、あえてその件は無視させていただき、一つのイメージのくくりの中で選定させてもらっている。
夏の言葉は夏まつりの情景 夏の言葉に選ばれたのは水戸市平須町在住の佐治安代さん(48歳・主婦)の方だ。水戸の街の夏と言って思い浮かべるのは祭りばやしの音。多分黄門さんは祭りにはお出かけにならないだろうが、家の中にいても聞こえてくる祭りばやしをこんな気分で聞かれるのでは・・・との思いで考えたのが次に紹介する言葉だ。『夏』・・・祭りの笛、太鼓の音・・・「祭りの音がだいぶ近づいてきたようじゃ。ほうら、子どもたちも着もそぞろになっておる。山車(だし)もみこしもみえるような黄門祭りの賑わいじゃ。いなせな若者のかけ声や太鼓の音、心浮き立つではないか。また、祭りの後の心地よい気だるさも好きじゃ。いつの間にか秋の気配が近づいて来るようじゃのう。・・・おはやしの音・・」。四季おりおりの声が楽しめるこの像が子供から大人まで楽しめる水戸の新しい顔になってほしいとも付け加えられている。
イベントはたくさんのボランティアで! 今回の除幕式では、陸上自衛隊施設学校音楽隊のファンファーレと演奏会を始め、各種団体の協力でイベントを盛り上げてもらった。詩吟、祭り太鼓若連、女性コーラス、和太鼓グループ等、ボランティアで参加してもらった。
残念ながら午後の部の途中から雹(ひょう)が降り出し磯節保存会やアマチュアバンドの方々の演奏が中止になり申し訳なく思っている。 ただ除幕式等の一連の式典は各協力団体、行政の代表の方々、製作者の方にも参列いただき無事終わらせた。これらの一連の
事業は3月28日NHK首都圏ネットワーク(午後6時30分)から放映される。また、秋・冬の言葉は次回コーナーで紹介させていくつもりだ。


≪45≫黄門さんおしゃべりパークの完成 その2 平成14年4月16日

旅姿の黄門さん 平成14年3月23日に行われた西山荘へ向かう旅姿の黄門さん像の除幕式には、地元南町三丁目出身の市長・岡田広氏をはじめとする各界の代表に列席をいただき盛大な完成記念イベントが開催された。実行委員長の国府田昭氏は「皆さんの協力でこんなすばらしいブロンズ像と黄門さんの肉声を再現した声で話を聞けるという全国でも例のない公園を作れたことに、感謝の気持ちでいっぱいです」とのあいさつをしていた。 この事業は私が理事長時代の時から始まっており七年目で完成の日を迎えている。この間、三浦晴保副委員長の膨大な資料作り、行政との打ち合わせ、公園名愛称募集や黄門さんの四季の言葉の公募準備等々、水戸市へ商店街が出す申請書のモデルとなるくらいの努力がある。同じ副委員長の大橋章氏もテレビ局との対応やボランティア出演者募集やテント売店への出店要請等お二人の身を粉にしている姿には頭が下がる思いだ。  どんな事業でも、一人でやれば「ただの馬鹿」。二人そろえば「頑張ってるね」。三人の力を合わせれば「素晴らしい!」との反応が返ってくるのが商店街事業の典型といつも感じてる。今回は「三人の力を合わせて」に該当したため、予想以上に事業展開の広がりと楽しさが加算され、本当に少額の予算の中で最大の効果をもたらした事業だと評価をしたい。 そんな理由で彫刻家・能島征二氏にも無理なお願いをしてきたが、石膏の制作過程から土台作り、設置の立ち会いまで私どもにもわかりやすく説明をしていただいてきた。出来上がった黄門さんはなかなかハンサムで近所のスズメたちの声では、能島先生ご自身に似ているのでは・・・・との声も聞く。穏やかで優しさにあふれた顔立ちに、来訪者の方々の見上げたままの姿を目にする度に私たちも安らぎを感じ取れるようだ。 台座に刻まれている名称は地元南町在住の書道家・荘司漱雲氏に依頼をし、書いていただいた。これまた地元住民としてのボランティア協力の一つとさせてもらってる。
黄門さんの秋の声 水戸の秋祭りの一つに「水戸藩時代まつり」がある。これは私と二十年にわたり一緒に商店街活動をしていた故・滝口統雄氏が水戸藩の絵巻に記されていた「追鳥狩」の武者行列を史実に基づいて再現した(2回実施)ものを五年前より毎年秋の見せる祭りとして行っているものだ。私も第一回目の取りまとめと慶喜役で馬にも乗ったこともあり、思いの強い祭りだ。私は体調不良につき、その後のかかわりはないが観客として見せてもらっている。 秋の言葉に選ばれたのは水戸市西原に在住の神永卓郎さん(70才無職)の方だ。時代まつりのホラガイや陣太鼓の音等、古きよき歴史の街「水戸」を思いながら作った言葉とのことだ。『秋』・・・ホラガイ、陣太鼓の音・・・「水戸は歴史豊かなふるさとじゃ。弘道館や好文亭など、先人たちの徳がしのばれるものじゃ。昔のままの大名行列、追鳥狩の姿など、水戸藩時代祭りのにぎわいは、まさに時代絵巻さながらじゃ。偕楽園の、萩の花咲く庭に昔の人を偲ぶとしよう。西山荘で見る月は、日本の未来の光を招いているような」・・・ブォー、ドンドン、ドン。神永さんは萩まつりで見た秋の月がとてもきれいだったので、これを西山荘見る月に置き換えてみたとも言っていた。前回でもふれているが時代考証からすれば黄門さんの時代には偕楽園はまだないのだが水戸と偕楽園は連想の中で一体になっておりあえて無視させていただいている。
冬の言葉は食文化 現在放映中の石坂黄門は、ちょっと理屈っぽく高笑いをして笑い飛ばす快活さがなく不満が残るともいわれているが、「これが目に入らぬか!」の印籠は健在なので、これを大型化したものにスイッチを付け黄門さんの声を聞けるようにしている。『冬』の言葉は高笑いから始まる。・・・はーはっはっは。「今日も冷えるのう。水戸名物のあんこう鍋でも食べて暖まろうか。じゃが、遷湖の暮雪と呼ばれるように、雪の降る千波湖はそりゅあ美しいものじゃよ。偕楽園の梅も寒さに耐えてきれいな花を咲かせる準備をしておるのじゃ。皆のものも春が来るまで頑張るのじゃよ。はーはっはっはっはっ」。この冬の声は、地元南町三丁目で育った常陸屋茶補の娘さんで今は元吉田町在住の大矢好江さん(36才・主婦)の作だ。明るいイメージにしたい思い笑い声と、それに合う言葉を考えてくれた。黄門さんが食べたかは不確定だが「水戸の冬」のイメージにはなんといっても「あんこう鍋」と思ったことと、母校の三の丸小の校歌に「梅は寒さに耐えて春に花を咲かせる」の一節を思い出し、自分の育った地域への思いも組み込んでくれている。この一連の事業はNHK首都圏ネットワークで5分間のドキュメントとして放映された。

≪46≫先が見え出した泉町一丁目の再開発 平成14年4月30日(火)
泉町1丁目再開発の経緯 水戸のシンボル的な百貨店「伊勢甚」消える跡地とその周辺の地権者12名の合意のもとに、泉町1丁目南側地区の再開発事業が最後の1ヶ所の参画を得られ、この4月、都市計画審議会で承認させた。 建物は地上9階、地下2階。敷地9、700平方b、延べ床面積78,600平方b(約23,000坪)県内最大の商業ビルになる。駐車場は10層で620台、地区面積1.7fの大きな再開発事業だ。工事着工は平成15年の春、完成は平成17年春を予定している。これまでの経緯を再開発準備組合代表の内田泰弘氏に聞いてみた。
再開発の話は、今から十数年以前に伊勢甚を核として西口通りを含めた計画が出来たのが始まりだった。当時は、まだボンベルタ伊勢甚が地元意識を強く持っており、自店を中心にした再会発を数年間検討あい合っていた。その間水戸芸術館が出来、それに伴う周辺整備計画による道路の拡幅も実施され始めた。その後、商工会議所にも参加してもらいながら計画の再検討をした。その中では常陽銀行泉町支店が角にある伊勢甚西口通りの拡幅は無理との考え方も出ていた。
 そこで国道に面する部分からの考え方で再構築をし、地権者の意見をコンサルタントに調整をしてもらいながら再会発の準備に入って行った。そんな中、内原町地区の大型ショッピングセンター計画が出てきた事で同イオングループ(ジャスコ)に組み込まれている伊勢甚の撤退が決定的となった。核店舗をどうするかの問題の中、今回出店を決めた水戸京成百貨店も土地は京成電鉄所有のため、勝手に再開発事業に参入する事も出来ず、上野駅前店(現在丸井)の閉店もあり、水戸店だけの営業(スパー部門は残っている)のため、正式な認定を受けるまではほからの中傷も受けやすく外部への発表も出来ずにいたと聞く。
泉町一丁目北側の思いは? 泉町南側地区再会発の正式な話は、北側商店主にとっては「寝耳に水で新聞を通して初めて知った」と、泉町一丁目商店街振興組合理事長・大貫英氏は語る。それぞれの“思い”の行き違い面がどうも街区全体をしっくり行かせない部分を作ってしまったようだ。ただ再会発で泉町一丁目が中心街区として生き残る事には反対をして行くつもりはないと付け加えてくれた。 商工会議所もTMO事業以外にも「芸術館を囲む街づくり連絡協議会」を近々に設立する予定なので京成百貨店移転後の跡地利用も含め地元の商店会ばかりではない地域の声を反映できる「街の活力作り」に着手するという。その際には街の融和の役もぜひ推進してもらいたい。
 今、泉町一丁目は今まで二つの百貨店が客を引っ張ってくれるのに安住をし、街区独自の活性化企画が見らなかったことを反省し、「秋のお月見売出し」ではススキとおだんごのプレゼント。初夏をつげるあじさいとサクラもちのサービス。冬場の温泉バスツアーご招待等々、街区としてのお客さまへの楽しい企画提供を始め出した。
 この地区には遠く離れたところに住む人たちには絶賛され今や水戸のシンボル的な水戸芸術館(最近は開かれた芸術館としての親しみやすさも工夫している)と、ネジリボンタワーがあり、このタワーがテレビの画面に出てくると、他都市に移住してしまった友人や知人からは「水戸の持つなにか“ほっ”とする街を思い出すと言われることが意外に多い。ぜひ泉町一丁目南側再会発事業完成時、2004年には北側地区もよりよい方向性の中で水戸の街の楽しさを増やせる街区でいてほしいと思う。
再会発に伴う道路整備 すでに出来てるのは梅香トンネルの開通と同時に開通したのが南町三丁目旧ユニーとセブンイレブン間の旧アイススケート場へ向かう紀州堀に下る道だ。このトンネルと南北横断道路が開通した一週間後には、千波大橋→農協会館→リリー文化学園→岡崎家具店までの通りと、南町一丁目スクランブル信号から共同病院へ向かう道は、見事なくらいに「ガラーン」とした。あの停滞がウソに思える位の交通量となった。街の中から人も車も消えてしまったとの印象すら感じる。 再会発に伴う都市計画道路の一つめは旧ユニーの南側、黄門さんおしゃべりパークから伊勢甚駐車場まで約100bが道幅21bの道路となる。二つ目が再会発ビルがセットバックをして出来る西口通りの幅17bの道路(常陽銀行泉町支店の西側)。三つ目が八百徳分店とイタリアントマトの間の南へ向かう備前町道りが130b区間のみ幅12bとなる西の谷から再会発ビルへの導線としてエスカレーターの計画もあると聞く。核店舗でワンストップショッピングにならないためにも街区全体で楽しさの演出をしながら個性的な店づくりと、常にあきらめない挑戦する街であれば行ってみたくなる、歩いてみたい街として生き残れそうな気がする。

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