南町三丁目商店街振興組合
特集 竹脇元治 「旧市街地・中心商店街・再生への道」 P16
≪40≫利便性と同時に消える街 平成14年1月28日(月)
| 馬の背で考えていた事 今年の年賀状は、干支が馬のせいか「飛躍の年にしたい」とか「天馬のごとく」等、喜ばしい望みを願うものをいただいた。私が40歳の時に始めた「お馬のケイコ」は、動物と一体感をもてるスポーツゆえか、今も続いている。 昨年の夏、中国雲南省の奥地・チベット自治州で、馬の旅を楽しんだ。高度順化のため、途中2つの都市に宿泊し、その後はバスで12時間かけ山岳部の街へたどり着いた。3500メートルの高原で、馬祭りの競馬出場の練習をしていた若者に私の馬も同調し、今までに体験した事のない速さで沼地や牧草地を飛ぶように走れたときは、水戸の街も馬の背だけど本物の背の上で思わず腰を浮かして競争をしてしまった。捨て身で力が抜けたせいか、馬も私も風になった気分だった。 4100メートルの山頂まで一気に登るコースでは、ガイドのお母さんたちの元気さには驚かされた。しかし下山道を馬を走らせて駆け降りていくと、彼女たちが断崖の危険な山道の入り口に瞬間移動したと思えるように両手を広げ馬を停止に飛び出してきたのには、びっくりさせられた。最短の直線を駆け下りてきたのにニコニコと笑っている。馬に乗っているこっちのほうが息を荒げているのに・・・・。 この奥地へくる途中、小さな市場が街角にある宿場らしき集落がいくつがあった。市場にはその地区の生活感をのぞき見られる楽しみがある。そんな集落のはずれの方では広い道路作りをしている。その道路が出来ると、この集落も変わっていくだろうなと思いながら、マイクロバスの運転手とガイド、チベット語と中国語それぞれの通訳と一緒に、市場を往きかう人たちをお茶を飲みながら眺めていた。観光ずれしていない屈託のない笑顔がいつまで続くのか、中国でのオリンピック開催が決定し、観光開発が一気に加速される事で、価値観の変貌をおそれる気分になる。 まぶしくない太陽はいやだ 数年前に北京を訪ねた際「今日は、久しぶりに良い天気になって、数日前までの雨が今日は振っていません」と言うガイドの言葉で空を見るとオレンジ色のまるで蜃気楼のような満月かと思える現実がそこにあった。スモックがそうさせていたのだ。 旧市街地を取り壊し高層化している最中だったり、家庭燃料が品質の悪い石炭を使っている家も多く、郊外の小川はゴミ箱化されていたり、工業化の中での環境整備の立ち遅れが、40年前の川崎や四日市の空と同じにしているのだろう。 同じころマレーシアのペナン島へ行く途中、クアラルンプール空港近くの海は赤茶色に変色していた。山林から樹木が消え、工業地帯や住宅地へ変わろうとしている途中なのか、海の変色と同色の大地には驚いた。 ローカル空港のペナン島に着くと、バスターミナル周辺の木々は夕刻、無数の小鳥が張り付いていた。後に知ったのは、この観光の島でも24時間稼動の工業団地が点在しており、そこで働く工員たちの送迎を黒煙を吹きながらポンコツバスが走っている。 山の木々も減り、鳥たちのねぐらが不足をしたために、鉄砲で撃たれない空港近くを安全なところと認識いているかららしいい。 海岸でも投げ網を持った魚師をカメラ片手に1時間ばかり追ってみたが、1匹もかからず肩を落としている背中を見て、シャッターをとうとう押さずに戻った事を思い出した。 今、行政に望む事 首長や地域を代表する政治家は、どうしても目に見えやすい道路や大規模開発、○×施設等を作りたがるが、そんな時代は終わらせてもっと地に着いた地道でもストックとして積み重ねによって、熟度を高められる方式を、考えたり、方向性を示していく時代なのではないかと思う。 例えば、私の友人が県北の美和村にジャズと古時計にあふれた喫茶店を出し2年目になるが、車で1時間で行ける。10年前なでは2時間以上かかった所だ。道の駅みわ(北斗星)は連日車であふれている。花笠トンネルができたことが便利になった要因だが同時に、地元のスーパーは閉店をした。大宮等、近隣の町へいきやすくなったからだ。その大宮町とてバイパスが完成すると同時に旧道の商店街は壊滅した。 下館の旧市街地も同様だ。駅の南口に行政は巨額のインフラ整備をし、ジャスコが出店したが閉店すると、北口のサティも閉店だ。この間地元の路面店はほぼ消滅している。 大型店が街区全体をうるおす時代ではなくワンストップの買い物で終了し、コバンザメ商業は成り立たない笠間の街もジャスコの出現で地元中小スーパーは閉店、路面店も大変な思いをしている。内原に超大型のジャスコが出て笠間店が閉店してしまったら、笠間の町はどうなるだろう。生き抜く知恵を見つけたいものだ。現に元気な店もあるのだから・・・・ |
≪41≫中心市街地の大きな空き店舗 平成14年2月10日(日)
| 巨額な固定資産税の支払い 平成5年8月、南町4丁目商店会の核であったスパー「ユニー」が撤退した。その後まことしやかに色々な話しが出ては消えを繰り返し、現在に至っている。跡地利用で関係者以外の目から見て具体的だったのは、現在常北町に建っている「サテライト」計画だ。賭博関連に付き、地域住民と行政の承認を必要としたため、ビルオーナー達にとっては残念ながら、取りやめになってしまった。 水と緑と文化の街を標ぼうしている水戸市にとって“賭博”はなじまなかったのだろう。 しかし、今、東京都のカジノ構想が全国に波及しているように“ダーティー”なイメージが無くなっているが、当時はまだ、街の中に受け入れる要素は少なかった。 そんなことで、現在、南町4丁目商店会の会長の・水戸市商店会連合会の専務理事をされている大橋章氏を訪ねた。昭和46年「東光ストア」を核とした地元商店主導の再開発ビルが建ち、独立採算のため「水戸東急」に変更され昭和56年まで続いた。その後、ユニーに変わり平成5年まで続き、現状は空いたままが続いている。ここが東水ビルだ。 そんな空店だがビル用地として1300坪を所有しているため、いや応無しに固定資産税はかかってくる。年間4000万円もの支払いになっていると聞く。軽減願いを出しているが、特例として認められずにいる。ごく一般に、中心街区ばかりに補助が出ている等と言われているが、納税額から見れば、補助金は多くはなく少ないくらいだ。 今後の方向性について 建て直しをし、再々開発の「商業と住居が一体となった施設」を考えているという。それには大型再開発のデベロッパーの力を必要とするため、今の厳しい経済環境の中では先に進まないともいう。 ただ、南町2丁目裏通りの再開発は、かってツルヤさんを中心になっていたものから行政も一緒になり再構築中だが沢山の地権者を取りまとめるには難航が予想される。その点この旧ユニー跡地周辺は合意が取りやすい環境になっているが、都市計画の網からはずれているため、行政も踏み込めない。計画は、あくまで計画なのだから見直しをし、すぐに出来そうな地区を優先すべきと思う。 水戸の中心街は大型観光バスをとめられる所がすくなく、せっかく観梅等で来水された方々も、市内を散策する事も出来ない。(そんな要因を各店でもっていればだまっていてもきてしまうが)それ故にこの東水ビルの1階はバスの駐車場にし、今年の3月完成の「おしゃべりをする黄門像」や地元の銘菓店や物産品店を歩いてもらえば、町の楽しさが増してくる。 以前にも触れたが、水戸の生んだ世界的な画家「横山大観」の1枚分の絵で出来るであろう「バーチャル美術館」や水戸の持つ歴史資産を映像で楽しみながら学べるものを作れないかと思う。 街の駅と観光客を街へ 最近、大学や行政・街づくり研究会等から「道の駅」ならぬ「街の駅」を中心街へ作ってみたらとの考えを聞くことが多い。 水戸TMOも基本的な考えの中にはこれらの事業も取り組みたいようだが、年間事業費が5〜600万円の限られた枠の中では、一ヶ所に全部を投入出来ないジレンマも感じている。東水ビルの立場では、実験的に取り組んでももらい、それが発展的に再々開発に進めたら良いと思う。バラマキより良い結果が出そうだ。 宇都宮、千葉等、戦後の出発は同じ人口の街だが、今比較すると数倍の差になった。鉄道利用を中心の30年以前までの観梅客は、多少なり中心街へも立ち寄っていた。それが、ピンポイント観光のように偕楽園からの広がりが無い。中心にも多くの住宅がほしい。 その辺を考慮して、南北貫通トンネル(梅香トンネル)完成と同時に出来る約30坪の残地部に「黄門さんおしゃべりパーク」(小学5年生会沢春佳さんの応募名に決定)が出来、そこに設置される黄門像は印ろうのスイッチを押すと季節を現す音を前後にはさみ、骨格から想像される黄門さんの再生音を4種類、各季節の応募作(小学生から70代まで)の中から選ばれた4人の言葉を聞ける仕組みになっている。この様な像は全国初の試みでもあり、南町3・4丁目の共同事業としても注目されている。町の駅や、観光スポットとしてもすばらしい施設の一つになるはずだ。 旧ユニーの跡地(東水ビル)がこんな事をきっかけに新しい変化が出来ると良いのだが、なぜ1、2階だけでも貸せないのかとの疑問に、例えば3階までを事務所使用程度の改装(1階で約600坪)の費用はエレベーター、エスカレーターを含み約4億円かかると聞く、家賃設定は低いのだがこの広さがネックになっている。このままではだれもがいけないとおもいつつ、南北道完成でぜひ変貌を期待している |
| 大規模証券のはざま・目黒区自由が丘 私が水戸へ戻ってくる直前、生活の基礎にしていたのが東京都目黒区自由が丘だった。駅前のビル地下1、2階でジャズクラブ「5SPOt」の経営をしていたジャズ評論家のいソノてルヲ(本名・磯野晃雄)氏にかわいがられていた私は、舞台の仕事を優先しながらこのジャズクラブで2年半、空中に浮かぶ様に働かせてもらった。 3年前いソノ氏が亡くなる直前に来水し、みやげにもらったラジオの録音テープがい遺品になった。そんな師に沢山のジャズメンを紹介された。印象的だったのはジャズピアニストの巨匠オスカーピータソンが「もっと近くへおいで!」と私は彼の弾くピアノを足元で汗の飛び散る顔を見上げながら聞いた事だ。その「5SPOt」も、今わもう無い。 数年おきにこの街は研修等で訪ねているが、渋谷から東横線で20分、さらに20分先には横浜だ。ヨーカ堂や阪急のある大井町駅からも大井町線で20分、そしてその先へ20分行けば、郊外型大型ショッピングセンターの草分け「玉川高島屋」が待っている。 こんな中でも一昨年、自由か丘駅前に「大型店はいらない!」と、出店計画に対する反対の垂れ幕が下がった。私が居た30年前の商業基盤は、3、4倍になりかつての住宅地まで店舗が広がっているが駅前の女神像のロータリーは変わってないし、高架線下のマーケットも健在だ。南口の田村魚鮮ビルだけが目立った所も小さな開発ビルが並び、居酒屋の並んでいた所が、カリスマ美容師達のしのぎを削る店の乱立の場所にもなっている。 エコロジーバスの運行 数年前に話題になったのが世界でも珍しいエコロジーバスを自由が丘駅を中心に30分おきに走らせている事だ。赤い車体のボンネット型のクラッシックバスは、飲食店や家庭から回収したてんぷら油などを精製したリサイクル燃料で走っている。自然に感謝する「自然さんありがとう」のテーマに賛同する個人や企業団体で運営されている。おしゃれな街が、おしゃれなバスを運行することでエコロジーの気持ちが住民の中に、いつのまにか生まれてくる要因を作り出す本物の優しい街の心が見えてくる。 そして、クリーンな街を目指す自由が丘商店街新興組合は「ヒューウマンスケール」の考えの中、外見ばかりの美しい街ではなく、暮らしやすい環境にも配慮した生活空間を創るべく「ダスターズ」と呼ぶ街路の美化スタッフ(赤色のツナギの作業服で街の清掃をする)を組織する以外にも、インフォメーションセンター(組合が運営する案内所・街のガイドブックも置いてあり、常駐のスタッフもいる)の前にゴミ袋の自動販売機を置き、ゴミの分別や再利用を呼びかけている。そして、夜遅くまで営業する店が増えている事も有り、自由が丘の夜を守る「自警団・PAX」も結成されてた。 以外な神社のイベント 以前、松田聖子のベビー服の店等、この街には大規模店に負けない話題性や個性的な店も多いが、以外だったのが「新しくて懐かしい街の四季」を上手に生かしたイベントを続けている事だ。元旦祭は地元の氏神、熊野神社の目黒囃子・9月には例大祭で色とりどりのみこしを集結・4月の駅南口の桜まつり・8月駅前ロータリーでの盆踊り等に対して、新しさのシャンソン歌手が名曲を披露するマリクレールまつり・10月がパリで開催されている「コース・デ・ギャルソン」を自由が丘風にアレンジしたウェイターとウェイトレスによるリレー・12月の駅前クリスマスツリーのライトアップに伴う幼稚園児の聖歌隊やゴスペルグループの出場等国際色も出している。 これら一連の事業は組合発行の月刊「自由が丘新聞」でも知ることが出来るが、組合の活発な活動の要因はデビットカードとクレジットの売り上げが年間35億円も有る事だろう。 自分の街は自分で創る この街は細い道が多い、その為高層ビルも少ない。それが街に優しさを提供してるのかも知れない。 そんな街を歩くと、さらに細い路地を意識的に取り入れている建物も目に付く。路地は不思議な空間で、何か好奇心をくすぐるものだ。 そしてこの街の上層部を見ると、貸事務所より、マンションや店主の住居として利用されているものが多い。 住んでこそ、街への思いは強くなるものだ。かっては高級住宅街であったこの街は、それ以前の昔からの熊野神社の節分祭や豊川稲荷の初牛祭等、新しさが目につく中で、しっかりと伝統も守って行く姿は、街への思いの強さを十分に感じ取れる街だ。私達も自分の街の良さを再認識しながら再生したいと思う。 |
≪43≫コンサルタントとの出会い 平成14年3月10日
| 地元にもいたコンサルタント 昨年この連載を南町三丁目商店街のホームページに毎月書き込んでいる三浦晴保氏(南町三丁目の副理事長)の元へ、金沢大学の都市工学研究グループの学生から、研修依頼があり、等句の街区への研修訪問があった。 女性をリーダーとする金沢大学工学部の十数名の学生たちは、三浦氏と私の話しを熱心に聞いた後、各人から自分の考えを聞いたり、街づくりに対する「思い」を語りあった。予想以上の鋭い質問に、研究をしっかりしている学生たちだなあと思いつつ、印象に残った事は、情熱を持って街づくりに取り組んだ事業が表面上はうまく反映されていないこと。旧ユニーが中心街に中心点でも平然と廃墟化されるのを行政や商工会議所、商店連合会等が、ただ手をこまねいているだけの姿勢。町の中では目につかないインターネットカフェ等の指摘だ。 この学生たちの先輩にあたるのが14年前に出会った「まちプラン研究所」の所長・高野賢氏だ。今も水戸市下市地区の備前堀を生かした「歩いて暮らせる街づくり・社会実験事業」を進めているが、当時はうらびれてしまった備前堀の景観改善を行政主導の基にコンサルタンとして協力していたのが、昭和62年より水戸に戻って「まちプラン研究所」を始動していた彼の地元での初仕事だった。 まちウオッチングって何? 高野氏と私が会うきっかけは、新聞のほんの5、6行の小さな記事だった。昭和64年から始められていた「まちウオッチングをしませんか」とのさそい掛けだった。商業と景観を考えるこの試みは、商業者ばかりを対象とするものではなかった。 この小さな記事を見つけた故・滝口統雄氏(当時、南町三丁目の専務理事)が街づくりを10年程担当していた私に言った「一度合ってみようか」がきっかけだった。それまでは、行政に提出する申請書、計画書等、町内の案内説明文まですべて滝口氏と私の二人で作っていた。苦手の資料作りをやれる人がいればと思っていた所に「まちプラン研究所」との出会いがあり、資料作りは得意の彼と一緒に街を変えて行こうとの気運が高まるのは時間の問題だった。そして長い付き合いが始まった。 私たち二人に会った印象は「怖そうな人たちだけど、異常なパワーに圧倒されながらも、この二人が街を変えて行く予感はしてました。」と14年振に本音をもらした高野氏は、民間の商店街との初めての仕事を南町三丁目と出来た事で他地区や県内の行政からも注目され、大変だったけれどかかわって良かったと言ってくれた。茨城県も水戸市も単独の商業団体に対する補助・助成金が1000万円を超える実績が無く、南町三丁目が消費税対応策の大型補助金(県・市から各4千万まで可能)の第1号として承認を受ける為には、行政も申請した私たちも大変な思いを強いられた時代だった。アーケードやコミュニティーホール等、今ではとても考えられない資産を作れたのもコンサルタントがいて初めて成し遂げられたことと思う。 こんな事がきっかけで、専門分野は、それぞれの専門家に自分たちの意思を上手に表現してもらうべく依頼をする体制で、街づくり活動を展開してきてる。 未来の姿をどこに見つけるか 「これからの中心街区はどうなるか」との話し合いの中で住宅の必要性、裏通り、横通りの美的な歩道 ・車道作り、歴史資産やその街区の核になりそうなシンボルや街の持つ良さを大規模なものでは無い(医療設備は別として)。今あるものを上手に生かす方法で魅力を出せるのが一番との閑雅へが共通していた。 高野氏は東西に走るバス通りに対して、南北への路地に今、面白い店や若者空間が生まれつつあると言う。 駅前近くの古いアーケード街・宮下銀座の入り口にはババクール等二軒の若者向けの店があり、最近は若者文化の象徴的な店だった大内商店が奥に出店したことで人の流れが出来たと言う。この街区は歴史的な東照宮を核として町の再構築が出来そうだ。 銀杏坂を上り本局前商店街にかかると、旧奈良屋町への坂道の路地が洋服店や中古レコード店があることで若者が立っていても絵になる変に居心地の良い空間になっている。これは南町三丁目のライトハウス入口の道路も同様だ。猥雑さと、ごちゃごちゃしたものが若者にはたまらない場所なのかもしれない。 泉町の国際証券から芸術館へ向かう旧鉄砲町の通りも個性の強いミセスの店が数店ある。芸術館へ出演している女優さんにも気に入られているマーローサは、高野氏のかってな表現からすると「洋服みたいな着物みたいなもの」を作っている作家の品の企画をしたら、商品が足りなくなるくらいの好評だったらしい。 街にはよどみが必要だし、ユニクロの生きずまり感がもう出てしまった量販品等に対しての差別は、個店でなければ出来ない店主の個性を全面に出せば、生き残る希望がありそうだと、高野氏と私はお互いにうなずき話しを終えた。 *新いばらき本文中の写真説明は「高野氏がとりまとめる下市・備前堀のソフト事業」と訂正ください。 |